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珍しい 印のみ の四国八十八ヶ所 集印軸の仕立替 | 神戸市
神戸市 のお客様より
弊社では四国八十八ヶ所 (お遍路さん)の納経軸を掛軸に表装するお仕事をお受けしております。毎年数多くのご依頼がありお四国巡りの人気の高さをうかがい知ることが出来ます。
今回はそんな四国八十八ヶ所の霊場集印軸で少し変わったお軸を拝見したのでご紹介させていただこうと思います。
通常、現在四国八十八ヶ所を回られて頂く印は下記のように墨でお寺の名前や本尊佛を書いた物の上に印を押すというのが一般的です。
今回 神戸市 のお客様よりお預かりしたのは何と 印のみ の霊場集印軸。弊社では今まで数多くの霊場集印軸を表装させていただいてきましたが、このように 印のみ のお軸を拝見するのは初めてです。まだまだ知らない事ばかりです。
掛軸の状態から推察するに随分と年代が経っているようです。下記の文献から察するに昭和初期~中期に四国八十八ヶ所が観光地化され始めた頃のものではないかと考えられます。昔はこのような 印のみ の形で集印が行われていたという希少な作品だと思います。
近代における遍路の「観光化」
昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師の下へ行けるようにと死に装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。
近代以降、四国遍路はさまざまな場面で取り上げられることとなった。以下は、森正人の『四国遍路の近現代 – 「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』創元社に詳しく紹介されているが、1908年には現在の『毎日新聞』の前身である『大阪毎日新聞』で、四国遍路の巡礼競争が企画された。全国紙での企画ではこれが最初のものであるらしい。1930年代には乗り物を用いて、旅館などに宿泊する巡礼者が登場した。彼らは「モダン遍路」と呼ばれた。四国遍路は観光としてみなされたのだった。
Wikipedia より抜粋
昭和初期~中期の年代の物なので随分と掛軸に傷みが出てきています。左下は本紙の部分が裏打紙から剥がれ始めています。これは裏打の際に用いられた糊の接着力が弱まって起こる現象です。
せっかくの希少な作品なのでお客様のご依頼により弊社の方でしっかりと表装仕立替を行わせていただきました。
裏打をし直したので掛軸全体に見られた折れジワも綺麗に伸びました。表装裂地も新調したのでこれでまた長い間飾っていただく事が可能です。
霊場集印軸の表装仕立替のご相談は是非、(株)野村美術 までお問い合わせください。
四国八十八ヶ所の納経軸掛軸表装についてより詳しく以下の動画で紹介しておりますので宜しかったらご覧ください。