赤松滄州 関係人物紹介 / 兵庫県赤穂地域の偉人達

赤松滄州 あかまつそうしゅう(1721-1801)

赤穂藩儒。名は鴻、字は国鸞、号は滄洲。幼名は丑之助、のち玄隆・耕庵・良平と称した。遠祖が赤松氏であるため、著述の上では赤松姓を名乗った。 享保六年 三日月藩医 船曳道益の次子として生まれ、元文四年(一七三九)十九歳のとき赤穂藩医 大川安碩 (玄東 げんとう)の女雄の婿養子となった。その後藩命により京都に遊学し、香川修庵 かがわしゅうあんに医を、宇野明霞に儒を学ぶ。延享四年(一七四七)五代藩主 森忠洪 により藩儒に登用され、私邸には 塾静思亭 を開いた。藩主の信望厚く、六代藩主森忠興 より「青龍窟」の扁額を下賜された。京都への遊学、江戸との往来によって各地の儒者·文人と交友を広め詩文をもって名を知られる。宝暦十三年(一七六三)致仕して儒業を長子蘭室に譲り、京都の文人世界に身を投じる。ただし、藩主の命により帰藩、江戸藩邸への出府もしばしばあり、蘭室とともに藩校の設立に尽力した。安永五年(一七七六)蘭室の建言が聴許され、翌年藩校博文館が設立された。滄洲は藩校開設に先立ち教育基本方針「博文館学範」を撰文している。天明四年(一七八四)には京都の居宅に柴野栗山·皆川淇園らと詩作サークル「三白社」を結成した。また、寛政異学の禁に際して、昌平黌教授となっていた柴野栗山に論難の書を送ったという。栗山は、幕府が朱子学のみを正学としたのは老中の政策で、自らの意向ではないと弁明した。滄洲は以後栗山との交友を断ったという。著書には「静思亭集」「周易便覧」「古詩礎」「琉客談記」「赤穂四十六士論評」などがあり、門下からは神吉東郭・村上中所・入江竹軒・都志毅斎らを輩出した。晩年は赤穂に帰り、享和元年八十一歳で没した。墓は興福寺にある。

 

森忠洪 もりただひろ (1728-1776)

赤穂藩森家第五代当主。幼名五郎作。和泉守。延享四年(一七四七)四代政房の遺領を継ぐ。生来好学で、 赤松滄洲 を藩儒に登用し自らも秋香亭、傘露と号して俳諧を嗜み、安永三年(一七七四)『秋香亭句集』を編んだ。明和六年(一七六九)隠居。安永五年六月、四十九歳で卒去した。

 

森忠興 もりただおき (1752-1784)

赤穂藩森家第六代当主。忠洪の嫡男で、幼名は豊之助。山城守、のち出雲守。明和六年(一七六九)襲封。文人・町人層の協力を得た財政政策を行い、藩校博文館を開設した。忠興の治世は、滄洲著『静思亭集』や蘭室編『赤城風雅』などが上梓され、赤穂藩の文教の最も高揚した時期であった。安永九年( 一七八〇)家督を実弟忠賛に譲り、天明四年正月三十三歳で没した。

 

森忠賛 もりただすけ (1758-1837)

赤穂藩森家第七代当主。忠洪の三男で、幼名槙蔵。伊予守、のち大内記、右兵衛佐。安永九年襲封。塩田開拓を推進する一方、藩校博文館の整備に力を注ぎ、赤松蘭室らに藩校教育の諸規則を制定させた。沾華、玉葉館東寓と号して俳諧を嗜み、句集『たひすすり 旅硯』を編んだ。享和元年(一八〇一 )退隠、天保八年七月死去。享年八十歳。

 

大川安碩  おおかわあんせき (1680-1750)

赤穂藩医。赤松滄洲の養父。俗称玄東。越後村上藩榊原家に仕える医者の家に生まれ、宝永元年(一七○四) 藩主榊原政邦の転封により姫路に移り、小坂姓を大川姓に改めた。さらに享保四年(一七一九)赤穂に移り、同九年赤穂藩主森長生に召された。享保十一年には侍医となり、禄八十石を賜った。元文四年(一七三九)滄洲を婿養子に迎えた。寛延三年七十一歳で没し、大蓮寺に葬られた。

 

赤松蘭室 あかまつらんしつ (1743-1795)

赤松滄洲の長子。名は勲、字は大業、号は蘭室。 幼名亥之助、のち周蔵、太郎平と称す。八歳のとき滄洲の門人香山国典に就いて学び、特に詩文に長じた。十八歳にして学業成り、私塾を開いて商家の子弟らに教えた。明和三年(一七六六)藩主忠洪の世子豊之助(忠興)の侍読となった。安永五年藩校の設立を許され、翌年上仮屋に完成、藩主忠興は博文館と命名した。蘭室は博文館教授と督学を兼ね、また勘定方取締の職にも就いた。二十九歳のとき安志藩家老小笠原直喜の女恭を娶ったが十年にして病没し、その翌年三日月藩榊原惣右衛門の女梅と再婚した。著作には『赤城風雅』『赤城文献誌』『蘭室先生詩文集』などがある。寛政八年(一七九六)長年の功績により四十石加増されたが、翌寛政九年五十五歳で没した。墓は加里屋の大蓮寺にある。

 

河野魯斎 こうのろさい (1759-1786)

赤松滄洲の次子。名を通綸、字は大経、俗称次郎。八歳にして詩文をよくし、安永四年赤穂藩士河野鉄虎の養子となった。鉄虎の薫育により兵法を学び、安永六年河野家を継いだが、天明六年わずか二十八歳で没した。墓は興福寺にある。著書は『魯斎閑話』『義人遺詠』『魯斎詩抄』など。

 

赤松真葊 あかまつしんあん (1788-1849)

赤松蘭室の五男。名は宏、字達夫、俗称宏平。博文館督学。天保十二年(一八四一)の博文館改革の直後にもうけられた加里屋の郷校の校師を兼任した。郷校は札座の跡に建てられていたが、弘化四年(一八四七)に取り払われた。また、私塾尚友館は真葊が開いたもので、養子大川在勉(赤穂藩少属、博文館教授)が跡を継いだ。嘉永二年に没し、大蓮寺に葬られた。享年六十二歳。

 

藤田東閣 ふじたとうかく (1690-1769)

赤穂藩森家の医官。名は温信、字は恵淑、東閣は号である。代々津山藩森家に仕えた家であったが、元禄十年(一六九七)森家改易のとき母や弟妹と生き別れ、流浪の旅のなかで父とも死別したが江戸に出て医学を吉田自庵に学ぶとともに書も修めた。延享三年(一七四六)母が旧主森家の領地赤穂に健在と知り、赤穂に来る。翌年藩主森忠洪に召されて医官となり、家中に書の指南も行った。寛延三年(一七五〇)赤穂義士五十回忌に先立ち花岳寺に忠義塚が建立されたが、その碑文を赤穂出身の龍野藩儒藤江熊陽が撰し、東閣が揮毫している。明和六年に八十歳で没し、興福寺に葬られた。墓誌銘は赤松滄洲の撰文である。

 

山下西涯 やましたせいがい (1749-1802)

赤松滄洲の門人。名は世幹、字は子礼、通称官弥。赤穂藩士山下正智の次子。滄洲門に学び、詩文・書をよくした。京都で子弟を教えるなど各地を遊歴したのち、明和二年(一七六五)飯室天目・大村蘭林らと美作津山藩校の創設に参画し、天明三年(一七八三)津山藩主松平康哉に召され藩校教授に遇された。また、安永元年(一七七二)に刊行された師滄洲の詩文集『静思亭集』の校正を行っている。実兄の山下世恭(字子愿、通称連蔵)も赤松滄洲に師事し、明和七年赤穂藩主森忠賛の侍読となった。

 

神吉東郭 かんきとうかく (1756-1841)

印南郡神吉村から赤穂藩医として招かれた神吉泰常の子。名は世敬、字は子輿、通称主膳。赤松滄洲に就いて儒学を修め、村上中所と並び滄洲門下の二傑と称された。各地を遊学してさらに儒・医を学び、赤穂に私塾観善舎を開き、また藩主森忠賛の侍医、博文館の督学も兼ねた。文化七年(一八一〇)官を辞し、医業に専念した。七十歳の文政八年(一八二五)には藩主森忠徳の命で江戸藩邸に召され、忠徳の病を治療している。天保十二年八十六歳で死去。

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掛軸は主人が来客に対して季節や行事などに応じて最も相応しいものを飾り、おもてなしをする為の道具です。ゲストは飾られている掛軸を見て主人のおもてなしの気持ちを察して心を動かす。決して直接的な言葉や趣向ではなく、日本人らしく静かにさりげなく相手に対しておもてなしのメッセージをおくり、心をかよわせる日本の伝統文化です。

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日本人が誇るべき美意識が詰まった掛軸の文化をこれからも後世に伝えていきたいと我々は考えています。



代表取締役社長
野村 辰二

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会社概要

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商号
株式会社野村美術
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野村辰二
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1973年
設立
1992年
資本金
1,000万円

事業内容

  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
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