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高野山 を描いた風景画 | 欄間額
宗派を超越した日本人の聖地・ 高野山
真言宗総本山高野山は816年に弘法大師(空海)が嵯峨天皇よりこの地を与えられて、道場を開かれたのが始まりです。苦心を重ねて中国で会得した密教を日本国民の救済の為に持ち帰った大師は、この聖地で入定されるまでの間に、宗教はもとより政治・科学・文芸に至るまであらゆる分野において多くの功績を残されました。また大使の入定後も大師の御心は弟子たちによって、ますます深く広く受け継がれ、今日の私たちに至るまで精神的支えとなっています。大師の崇高な御心が一千年を越えた今も宿る高野山は日本人にとっての聖地と言っても過言ではありません。
水墨風景画の第一人者・中島敏夫画伯が徹底描写
幼少の頃より天賦の画才を発揮した画伯は水墨風景画に傾倒し続け、どんな風景でもその技量と豊かな感性でいとも簡単に描く事が出来る天才画家と言われましたが、その天才が10年以上もの歳月を費やして完成させた図がこの高野山です。画伯は「高野山をものにするためには、ただ目で見るだけではなく内に在るものに触れられなければならない。」という信念のもとに、弘法大師の御心に少しでも触れようと、高野山の地を何百回も訪れ、四国八十八霊場巡礼を繰り返しました。このように日夜西神の鍛錬を重ねて生み出された高野山図は、見る者を引き込んでしまう程の深みと落ち着きを与えてくれます。一人の画家が、画家生命をかけて取り組んだこの高野山図を眺めるにつけ、心安らかな気分にさせてくれます。
高野山 ・根本大塔(こんぽんだいとう)
多可さ50m余もある朱塗りの大塔で、内陣に胎蔵界大如来を本尊として金剛界四仏が安置され、16本の柱と壁に、極彩色で描かれた諸尊と共に曼荼羅世界を表徴している。現在の建物は鉄筋コンクリート造りで昭和12年に再建されたもので、高野山のシンボルと言われている。
高野山 ・御影堂(みえいどう)
弘法大師がお住いになっていたといわれ、現在の御堂は1848年に紀州徳川公が壇主として再建されたもの。空海入定後に弟子実恵が真如法親王筆の弘法大師御影像を安置したため、御影堂と呼ばれるようになった。五間四方の宝形造りでゆるやかな檜皮葺の屋根は優美である。
高野山 ・三鈷の松(さんこのまつ)
弘法大師が中国・唐から帰国の際に、日本で仏の世界を表した伽藍を製作する場所に関して仏の意思を仰ぐ為、三鈷(仏具)を投げた所、この3つに分かれた松の枝に掛かり、大師はここに堂をつくる事に決めたといわれる高野山発祥伝説の松。
奥の院(おくのいん)
大師がこの地で入定し葬られた場所。約2キロにわたる参道の両側には全国の諸大名や名士の墓が延々と続いている。その参道をつきぬけると正面に大きな灯籠堂があり、その裏手の拝所の玉垣の中に大師の御廟所がある。
画伯略歴
昭和4年: 和歌山県那賀郡生、昭和16年より神戸市在住。私熟明水会主宰。関西芸術家連盟理事。竣工美術院理事。独学にて水墨画を修め、徹底写生の繰り返しにより対象物の内面を掘り下げる事を第一とする。
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