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大橋翠石 のまとめ | 虎絵画家の最高峰
目次
兵庫県立美術館で予定されておりました「明治の金メダリスト 大橋翠石 虎を極めた孤高の画家」展は新型コロナウィルスの影響によりまことに残念ですが中止となりました。詳しくはこちらのURLをご覧ください。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200403-00000007-btecho-cul
動画: 【大橋翠石】日本画史上最高の虎絵作家を徹底解説!!
大橋翠石の幼少期時代の日本美術の状況
明治時代初期: 日本美術の大荒廃
大橋翠石は江戸時代末期の1865年に岐阜県の染物屋に生まれますが、この時代の日本美術界は長きに渡って続いた江戸時代が終焉を迎え、新しい明治の時代へと大きく変化している真っただ中にありました。1868年(明治元年)に政府より出された神仏分離令により起こった廃仏毀釈運動は全国に飛び火し、日本の仏教美術は大きく荒廃していきました。それに加え江戸時代の幕藩体制が終焉を迎えた事により、御用絵師と呼ばれる画家と主人との主従関係も終わりを迎えパトロンがいなくなったことにより生活に困窮する画家が大量に発生しました。江戸時代に栄華を誇った狩野派の絵師も例外ではなく、日本画史上に絶対的傑作である「悲母観音」を残す狩野芳崖や明治時代の日本画の中心的存在の一人である橋本雅邦でさえ生活に困窮する時期があった程です。西洋絵画の流入により日本の美術の価値はさらに下がり、明治時代初期の日本美術は大きく荒廃していきました。
龍池会発足、美術真説による日本画の概念誕生、鑑画会発足、東京美術学校設立
そんな中、日本美術の保護を目的に政府関係者を中心に1878(明治11)年に発足されたのが龍池会(後の日本美術協会)。この会を中心に日本美術の保護がスタート。この会に当時西洋哲学を日本人に教える為に来日していたアーネスト・フェノロサもブレーン的な存在として参加。(フェノロサは美術には元々関心が高く自国では油絵とデッサンを学んでいた経験もあり、来日後は日本美術への関心も高めていた。)
1882年(明治15年)にフェノロサは龍池会で「美術真説」という講演を行い、日本画と洋画の特色を比較して、日本画の優秀性を説く。この講演の中で初めて「日本画」という言葉が使われ、「日本画」という概念が生まれる事となりました。
この後、フェノロサは従来の日本美術の純粋な保護を目的とする龍池会の考えと距離を置き、現状の日本画に西洋画のエッセンスを加え世界に通用する日本画へと革新する事を目的とする鑑画会を発足。岡倉天心や狩野芳崖、橋本雅邦など共に新しい日本画への模索がスタートする。
その後1887年(明治19年)に官立である美術専門学校である東京美術学校が設置され、初代校長となった岡倉天心の下、横山大観、菱田春草、下村観山などが頭角を現し始めます。
大橋翠石の幼少期~修業時代
大橋翠石は父親が絵を学んでいた事もあり、幼少期から絵を描く事を好んだそうです。1880年(明治13年 / 15歳)に地元の画家・戸田葆堂(とだ ほどう)に絵を学び、続いてその師匠である天野方壺(あまの ほこう)に京都で絵を学びます。その後、一時帰郷しますが1886年(明治18年 / 21歳)の時に東京で渡辺小崋に弟子入りをします。
苦難の時代~虎との出会い
母と師の急死
大橋翠石が渡辺小崋に弟子入りする為に上京した翌年である1887年(明治20年)に母と師が急死し、深い悲しみが大橋翠石を襲います。翠石は帰郷し、以後独学で絵の研鑽に励む形となります。
濃尾地震、父の死
帰郷後の生活もつかの間、1891年(明治24年)に日本史上最大の直下型地震である濃尾地震が発生(M8.0 ~M8.4。震度7。 cf. 阪神大震災 M7.3。震度7.)。死者は7,273名、負傷者1,7175名にもなる大震災で岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったと言います。この震災により父が犠牲となり、再び大きな悲しみが翠石を襲う事となりました。
傷心の中、翠石は父の遺骨を納める為に京都を訪れます。そこで円山応挙の虎絵の写真を購入し、悲しみを忘れようとするかのように一心不乱にそれを手本に虎絵を練習しました。
「虎の翠石」誕生
そんな折、濃尾地震で被災した人達を元気づけようと開催されていた虎の見世物興行で翠石は本物の虎を初めて見る事となります。これまで日本には虎は生息しておらず、これまでの画家達は大型の猫として虎を想像して描いていました。円山応挙も例外ではなく一般的にその種類の虎を「猫虎」と言います。江戸時代後期にリアルな虎絵を描いた岸駒ですら実際には虎を見た事はなく、虎の頭蓋骨に虎の皮をかぶせて寸法を計算し想像の上で描いた物だったので、一般に虎を目にする事が出来るようになったのは明治時代以降となってからです。
この虎との出会いが翠石に大きな変化をもたらす事となり、翠石はまるで憑りつかれたかのように毎日のように虎のもとに通い、写生に明け暮れるようになりました。まるで伊藤若冲が庭に鶏を飼い徹底的に観察してリアルな鶏を描いたかのように、翠石も徹底的にリアルな虎を追求していきました。ここに「虎の翠石」が誕生する事となったのです。
画壇デビュー
第4回内国勧業博覧会
大橋翠石の画壇デビューは1895年(明治28年 / 31歳)。輸出品目の育成を目的に政府主導で計5回行われた国内向けの博覧会である内国勧業博覧会の第4回に出品し、褒状、銀牌を受賞したのが始まりです。その後国内の展覧会に出品、受賞を重ね徐々に知名度を上げる。
この頃の日本画壇は1898年(明治31年)に岡倉天心が「美術学校騒動」により東京美術学校を非職する事となり、日本美術院を創設する。これが現代まで続く日本美術院(院展)の始まりである。これに伴い、多くの画家が日本美術院へ参加する動きとなり日本画壇は日本美術協会(元・龍池会)を中心とする旧派と岡倉天心を中心とする新派、その中間派といった図式となる。また、この頃から横山大観、菱田春草らは新しい表現方法である朦朧体への挑戦を始めるようになる。
世界での高評価
1900年(明治33年): パリ万博
1900年(明治33年)のパリ万博は1900年という区切りの年に行われたまさに世紀のイベントであり、フランスはもとより各国のこの万博に対する出品の意欲は並々ならぬものがあった。日本としては自国の絵画が世界基準に適うかどうかを見極める重要な展覧会と位置づけられており、日本美術協会を中心に準備が進められました。この当時、野に下った岡倉天心系ではなく日本美術協会が中心に審査員として作品を選抜していたのは政治的な要因が大きいと考えられています。
そんな中、当時の画壇での知名度で言えばそれ程でも無かった大橋翠石が他の名立たる画家を抑えて堂々の金牌を受賞したのです。(大橋翠石が金牌、橋本雅邦・川端玉章・今尾景年・黒田清輝が銀牌、横山大観・竹内栖鳳・下村観山が銅牌、上村松園・荒木十畝・和田英作が褒状。) 大橋翠石の写実的な虎絵が世界で認められた瞬間でした。これにより大橋翠石は虎絵画家としての地位を確立させ、その後日本画壇で注目を集めるようになり多くの画家に影響を与えました。
面白いのはこのパリ万博の後、竹内栖鳳はヨーロッパに留まり洋画を徹底的に研究しました。当時は無名に近かった大橋翠石に世界の舞台で負けた悔しさもあってか、竹内栖鳳は動物園に通い当時日本では見る事が難しかったライオンを徹底的に写生し、帰国後に大画面の金屏風に獅子を描いた作品を立て続けに発表。日本画史上、横山大観と双璧を成す巨匠と言われる竹内栖鳳に大きな影響を大橋翠石が与えたと考えられるとこのパリ万博は大きな意味を持つと言えるでしょう。
1904年(明治37年): セントルイス万博
アメリカのセントルイスで1904年に行われた万博で1900年のパリ万博のおよそ4倍の土地に1500以上の展示用建設物が作られたそれまでで最大規模の万博。世界44か国より約2,000万人もの人が参加した大イベントとなりました。日本は日露戦争中でしたが当時は勢いに乗っており世界の一等国と肩を並べる事を目指していた為、参加します。大きな敷地に大規模な日本庭園を造り、金閣寺風な建造物も建てるなどその意気込みは並々ならぬ物が当時の資料からも感じられます。
このセントルイス万博でも大橋翠石の虎が出品され、高い評価と共に再び金牌を受賞する事となりました。
1910年(明治43年): 日英博覧会
日清日露戦争勝利して一等国として欧米列強と肩を並べるようになった事を世界に示す為にイギリスと共同で行った20世紀初頭の西洋における日本に関する最大の催し。22,550㎡にもなる会場の敷地面積は過去最高。国宝まで展示する程の意気込みから周辺国からも観覧者が多数来場し、800万人を超える大成功を収めました。
ここでも大橋翠石の虎は金牌を受賞し、もはや大橋翠石の画家としての地位は不動の物となったと言えます。
神戸・須磨時代
1912年(大正元年): 神戸須磨移住
世界の展覧会での連続受賞により、確固たる地位を得た大橋翠石ですが結核を患っていた為、当時先進的な結核治療の地域だった神戸の須磨に1912年(大正元年 / 48歳)移住します。大橋翠石が移住に際し、阪神間の政財界の著名人が後援会を結成し、厚遇をもって迎え入れたそうです。「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまで言われたそうです。
この時期より大橋翠石の虎絵に変化が生まれ、濃密な背景表現に特色を持つ独自の作風「須磨様式」を完成させ更なる進化を遂げます。
1930年頃(昭和初期): 東西二大巨匠に肩を並べる
当時、東西二大巨匠である横山大観、竹内栖鳳に並ぶ形で作品の価格が高騰する程、大橋翠石の人気は高かったと言われています。川合玉堂、上村松園、鏑木清方、村上華岳などの人気作家の価格ももちろん高額でしたが、この三人の価格は別格クラスで高額でした。これほどの人気にも関わらず、文展、帝展、院展といった中央画壇には一切興味がなく出品はしなかった所から「孤高の画家」と現代では呼ばれるようになったのかもしれませんね。
晩年期
1945年(昭和20年):
1945年の神戸大空襲の後、地元である大垣に疎開。8月に終戦を迎えた後、愛知県の娘の嫁ぎ先に移るも8月31日に老衰の為、亡くなる。81歳没。