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日本絵画史 まとめ
目次
飛鳥時代 (592-710)
仏教の伝来
538年あたり/百済の聖明王から仏像と経典が送られる。
→ 寺院の建立(古墳→寺へ。豪族の権威の象徴の変化)、仏像製作、仏画の製作 … (7cくらいには紙や墨、絵具の作り方が伝わっていた。)
→障壁画や工芸品の一部に仏画が描かれている。(法隆寺の「金堂壁画」や「玉虫厨子」など)
奈良時代(710-794)
仏画製作隆盛
・唐の文化の影響(遣唐使)、鎮護国家の思想
→「絵因果経」「当麻曼荼羅(つづれ織)」「吉祥天像(薬師寺)」
平安時代(794-1185)
前半…密教絵画
・奈良仏教の影響排除→天台宗、真言宗保護→密教芸術隆盛…神秘的な儀式(護摩行など)を重んじるので造形が大切
「高雄曼荼羅」「竜猛・竜智図(りゅうみょう・りゅうちず)」「十二天図」
後半…貴族文化
・国風文化→大和絵 cf. 唐絵
・浄土教美術→阿弥陀来迎図
・絵巻物→四大絵巻『源氏物語絵巻』『伴大納言絵詞』『信貴山縁起』『鳥獣人物戯画』
鎌倉時代(1185-1333)
宋から禅画や水墨画が伝わる
・初期水墨画
日宋貿易、南宋の禅僧の亡命などが影響
– 禅宗→禅画(頂相、達磨、etc)
– 山水、花鳥画など
→代表的な画家 (可翁、黙庵/元に留学)
・似絵
大和絵系肖像画
・巻物
- – 合戦絵巻(平治物語絵巻、蒙古襲来絵詞, etc)
- – 社寺縁起絵巻(北野天神縁起絵巻、石山寺縁起絵巻, etc)
- – 高僧伝絵巻(法然上人絵伝、一遍上人絵伝、etc)
- – 紫式部日記絵巻
建武の新政(1333-1336)
室町時代(1336-1573)
前半…宋元文化の隆盛
・足利将軍家と密接なつながりを持つ画家が出現
→如拙(じょせつ): 雪舟に祖と仰がれ、狩野派や長谷川等伯などによって「日本における漢画(唐絵)の祖」としての地位を与えられた。
中期…周文、三阿弥、雪舟、狩野派、土佐派
応仁の乱(1467-1478)、足利義政時代(1436-1490 / 在職: 1449-1473)
・三阿弥(能阿弥、芸阿弥、相阿弥の親子三代→15c半ば~16c前半に活躍)…同胞 (将軍家の芸術顧問)→画壇をリード
・周文 → 将軍家の御用絵師 …詩画軸
絵画史の区切りとして「如拙、周文、三阿弥」がセットでまとめられる事が多い。
– 雪舟(1420 – 1506)→周文に学んだ後、山口に下り、明に渡って成功(宋元画を学ぶ)。→帰国後大成功。
– 小栗宗湛(1413 – 1481)→周文の後継者の御用絵師
– 狩野正信(1434? – 1530)→小栗宗湛の後を継いだと考えられる御用絵師で狩野派の祖…武家中心に活躍
– 土佐光信(1434? – 1525)→宮廷の絵所預を担った大和絵系の絵師。土佐派の中興の祖…公家中心に活躍
後半…狩野派繁栄の基礎確立
・狩野元信(1476 – 1559): 正信の息子。
漢画の画法を整理+大和絵の技法を取り入れてまとめる→書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した。
様々な顧客の様々なニーズに対応する為の how to をまとめて弟子達に学ばせ、分業による大量生産体制を築いた。
安土桃山時代(1573-1603)
桃山画壇四大巨匠
戦国大名がこぞって城を立てて自らの権勢を誇示した。その中で城に豪華な障壁画(襖絵)を描かせる事を競った→豪華でわかりやすい作品が多く残っているのでわずか50年しかないが美術史では重要視される。
狩野永徳(1543-1590)→織田信長の安土城、豊臣秀吉の大阪城、聚楽第、伏見城の障壁画を手掛ける。この時代のNo.1画家。
長谷川等伯(1539-1610)→狩野永徳のライバル。『松林図屏風』は日本水墨画の最高傑作として名高い。晩年には自らを「雪舟五代」と称している。
海北友松(1533-1615)→龍の名手。僧、武士、絵描きと波乱万丈人生。建仁寺の水墨で描かれた襖の龍は必見!
雲谷等顔(1547-1618)→雪舟を継いだ男。山口県で輝元より禄100石、雪舟筆の『山水長巻』と雪舟の旧居『雲谷庵』を与えられ、既に途絶えていた雪舟画の再興を命じられた。
狩野派の三面作戦
永徳の死→長谷川等伯の台頭→戦国乱世
→三面作戦: 狩野派の生き残りをかけて取った作戦がすべての権力者(朝廷、豊臣、徳川)に一門をそれぞれ分散配置し、どこかが生き残れば良いという作戦。
→徳川家が残り、密接に関わっていた狩野探幽を中心に江戸時代の幕藩体制の元で御用絵師として盤石の体制を築く。
江戸時代(1603-1868)
太平の時代に様々な文化が花開いた時代
・狩野派: 狩野探幽から幕藩体制の元で盤石の体制(御用絵師や町狩野)…マンネリ化も。
・土佐派: 土佐光起から公家関連で安定的勢力…マンネリ化も。
・琳派: 俵屋宗達→尾形光琳→酒井抱一→鈴木其一
・浮世絵: 菱川師宣→鈴木春信、勝川春章、喜多川歌麿、東洲斎写楽→葛飾北斎、歌川広重→歌川国芳
・南画: 池大雅、与謝蕪村、谷文晁
・円山・四条派: 円山応挙、松村呉春
・奇想の画家: 伊藤若冲、曾我蕭白、長沢芦雪
・南蘋派: 沈南蘋→熊代熊斐(くましろゆうひ)、宋紫石
明治時代(1868-1912)
日本画の夜明け→日本美術院設立
明治維新による画家の三重苦→幕藩体制崩壊によるパトロン消失、西洋化による価値下落、廃仏毀釈
→見直し: 龍池会 (1878) (後に日本美術協会→旧派系)
→アーネスト・フェノロサ、岡倉天心 / 鑑画会(今の日本画に西洋画のエッセンスを加えて改良して新しい日本画を作る)…狩野芳崖、橋本雅邦
→東京美術学校(1887) / 実質的な初代校長=岡倉天心
→「美術学校騒動」(1898)→岡倉天心失脚→横山大観、菱田春草、下村観山、橋本雅邦らを率いて日本美術院(院展)設立→新派系…海外では評価されるも保守の日本では苦難の連続
文展設立
日清、日露戦争を勝利し、一等国としての地位を確立した日本→国の文化基準が必要→国主催の展覧会「文展」が設立(1907)
→画壇は新派と旧派の対立が入り乱れており、国によるコントロールは困難だった→なんとかかんとか共存していく中で傑作も生まれていく。
大正時代(1912-1926)
日清、日露戦争勝利、第一次世界大戦の勝利国という流れから国威の発揚に沸いた時代。暮らしが豊かになった部分を背景に「個人」を尊ぶ風潮になり様々な個性的な作風が生まれた。
俵屋宗達の再評価
琳派の祖でありながら当時までは評価が低く海外に多くの作品が流出していたがこの頃に再評価されるようになり、装飾的な画風などが多くの画家に影響を与えた。
再興院展
日本美術院は1903年(明治36年)以降は展覧会を開催しておらず、岡倉が没する1913年(大正2年)には、事実上休止状態にあった。(岡倉天心超多忙などが原因)
岡倉天心が没した翌年に横山大観、下村観山らを中心に再興院展→当時文展の体制に不満を持つ作家や大観らに憧れる作家の多くが参加。画壇を文展と二分する一大勢力となる。
文展→帝展
文展の体制に内外から批判が高まり、帝展としてリセット。再出発。
昭和時代(1926-1989)
前半…1920年代~30年代→古典回帰
「自国のアイデンティティは古典にあり」という事で古典研究が広がり、それらを踏まえた新しい表現が広がる→新古典主義→新派、旧派の垣根が無意味化
中期…戦中期(1935-45)
松田改組 1935年 → 新文展
文展から帝展になっても体制批判が高まったのと在野の日本美術院も取り込んで戦争時の国家体制の元、一本化しようと文部大臣である松田源治が帝展改組案を打ち出した。
→いきなり過ぎたので各方面から大ブーイングの上、唱えた本人が1936年に急死するという大波乱。
→結局一本化出来ず、新文展として戦後まで続く。
彩管報国と制限
・画家も軍部に協力を求められる
→戦争画を描いて国民意識を高揚させる。
→寄付金
→戦争反対には弾圧。
戦後期 1950年前後
日本画滅亡論
1946年 新文展→日展となり再スタート→制度の在り方を巡ってもめる→主要団体離反→以後、日展、院展、前衛系という構図で進んでいく。
→戦前と変わらない表現方法が日本画壇全体で目立ち、日本画滅亡論に発展。
→近代日本画壇を支えてきた日本画家達は鬼籍に入るか画壇の長老という立場に変化していった。
国民絵画としての新しい日本画 / 組織力がブランド化
・日展→日展三山: 東山魁夷、杉山寧、高山辰雄
・院展→平山郁夫
・創画会→加山又造
バブル崩壊→グローバル化
「国民絵画としての日本画」への閉塞感から脱し、グローバルに活躍する日本画家が1990年代から現れだす。
・千住博→ウォーターフォール
・村上隆→ポップカルチャーとの融合
IT技術を背景に様々な情報がグローバル化される中で、世界的に注目を集める日本の絵画
・浮世絵
・伊藤若冲
・漫画やアニメ
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