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日展と院展の歴史 について | 日本美術展覧会と日本美術院展
以前、「日本絵画史のまとめ」という講義の動画をUPしてその中で明治以降に日展の元になる文展や院展の歴史も解説したのですが、
「色々な他の話の中に埋もれてしまって日展、院展の流れがわからなかったのでそれに注力して説明して欲しい」
というご要望を頂戴いたしましたので今回は「 日展と院展の歴史 」について絞って解説させていただこうと思います。
まだ動画を見られていない方は是非こちらもどうぞ。(文展や院展の話は3つある動画のNO. 3にあります。)
目次
解説資料
明治時代初期の日本美術の荒廃
日展と院展の歴史 は明治時代にまで話はさかのぼります。
明治時代…当時は江戸時代に黒船が来航してきて鎖国が終わり幕府が滅び、明治維新による新しい時代になりました。
明治初期の頃は日本美術というのが非常に荒廃していました。
幕藩体制が無くなってしまったのでこれまで藩などに雇われていた絵描きさんはパトロンがいなくなり全員解雇になってしまったので非常に食べていくのに苦労する事になりました。江戸時代に栄華を誇った狩野派であっても例外ではありません。あまりに食えなくて海軍などで図面を描いて生活していたなんて人も多くいたそうです。
西洋の物もどんどん入ってきて、新しいハイカラなモノがもてはやされる中で逆に今までの日本の文化は求められにくくなり価値が下がって余計に作り手にとっては苦しい状況となった背景もありました。
極めつけが明治政府が神道国教化の為に「今まで混ざっていた神道と仏教を分けましょう」という目的で「神仏分離令」を発したのですが、これが誤解を招き仏教を排斥しようという捉えられ「廃仏毀釈」という運動につながっていきました。
革命児・岡倉天心
これらの荒廃した日本の文化の状況を打破しようと動き出した中心人物が岡倉天心という人物だったんですね。
岡倉天心はパートナーであるアーネスト・フェノロサと共に西洋にも通用する新しい日本画を生み出そうと色々な活動を行います。
その甲斐あって1887年に東京に唯一の官立である東京美術学校(今の東京芸大)が設立され、実質的な初代校長に岡倉天心が就任しました。
岡倉天心は当時、かなり革新的な美術の講義を行っていたそうです。例えば「月を描きなさい。ただし月は描いては駄目です。」みたいな…禅問答のようなお題ですけど「描く対象を直接描くのではなく鑑賞者に想像させるように間接的に作品を描きなさい。」というような意図なのだと言われています。日本の美意識の「幽玄」につながるレクチャーですね。
その革新的な教えに多くの生徒達から慕われていたそうです。
美術学校騒動から日本美術院設立へ
順風満帆に見えたそんな岡倉天心だったのですが、事件が起こります。それが有名な「美術学校騒動」です。(1898年)
岡倉天心は革新的な教育者ではあったのですが、敵も多く政治的な絡みも色々とあった中で岡倉天心のスキャンダルが画壇を中心に駆け巡ります。当時、政界で活躍しており美術関連でも力を発揮していた九鬼隆一の奥さんと不倫をしていたという内容のスキャンダルだったのですがこれが大問題となってしまいます。
「そんな人物に東京美術学校を任せられない。」という批判が高まり、岡倉天心は1898年に東京美術学校の校長を辞任して去るという事になってしまいました。
表舞台から失脚してしまった岡倉天心でしたが、彼の革新的な教育に惚れこんでいた多くの生徒が岡倉天心を慕い一緒に東京美術学校を去り、自分達の理想とする美術を生み出す為の団体を東京の谷中(今の台東区)に設立します。それこそが今の「日本美術院」(院展)でした。院展の始まりはここからになります。
苦難の日本美術院
岡倉天心は院展で新しいスタートを切り展示会などを行いながら活動をしていたのですが、なかなか上手く進みませんでした。横山大観や菱田春草らを中心に朦朧体など新しい日本画へ挑戦するのですが日本ではなかなか受け入れられませんでした。岡倉天心と共に渡米して行った展示会では成功を収めた二人の画風でしたが、日本の購買層は依然として保守の方が多かった為に徐々に日本美術院の経営は苦しくなっていきます。苦しい経営は日本美術院のメンバーの内紛にもつながっていき組織の運営は末期症状になっていきました。
組織の運営というのはお金が絡む事であり、人間関係も含めてなかなか一枚岩で継続する事は難しいですね。特に芸術家の集まりである団体であればなおさら舵取りは難しいと言えるでしょう。
日本美術院の五浦時代
そんな状況からの再出発を図るべく、岡倉天心は1906年に日本美術院を茨城県の五浦海岸に移します。これに従って横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山が移住し濃密な制作活動の期間を始める事となります。どちらかというとこの当時の院展のイメージはこの時代の物の方が認知されているように思います。全員白い服を着て和室に横並びでひたすら絵を描いている写真が有名ですね。
しかしこの五浦時代にあっても日本美術院の経営は厳しく、特に横山大観、菱田春草は革新的路線を進めていた為、困窮していたという話は有名です。
世界の岡倉天心へ
またこの頃から岡倉天心は海外での活動も増え、頻繁に留守にするようになり日本美術院の活動は徐々に鈍っていきます。当時の岡倉天心は日本を始めとする東洋の美術に関する見識を海外で高く評価され、アメリカのボストン美術館では中国・日本美術部長に抜擢されるなど大忙しの状態でした。
日清・日露戦争の勝利により世界から日本という国が注目されるようになった反面、野蛮なアジアの脅威的な国として誤解されている状況を打破しようと岡倉天心は美術の前に、「そもそも日本とはどういった国なのか?どういった文化や歴史を持ち、どういった考え方を持っているのか。またそのルーツとなる東洋全体の文化はどういったものでそれは西洋と比較してどうなのか?」といった内容を海外に紹介する事の方が大切と考え、すべて英語で記した「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」を出版し世界的に注目を集める形となったのです。
文展開催
そんな中、なかなか暗闇から抜け出せない日本美術院に一つの転機が訪れます。それが国の文部省主催の展覧会「文展(文部省美術展覧会)」の開催です。(1907年)
当時の文部大臣である牧野伸顕はかねてよりヨーロッパの進んだ芸術文化事情に詳しく、日本も世界の一等国として公設展示会を開催し高い芸術文化基準を育成したいと考え開催にこぎつけました。
国が主催する展覧会という事で多くの芸術家にとっては晴れの舞台となる発表の場が整った事は大いに喜ばれた。そしてこの第一回文展の審査員に岡倉天心、横山大観、下村観山も選ばれる事となり日本美術院のメンバーも今後は文展を中心に活動をしていく形となり、日本美術院の活動は事実上停止状態となりました。
再興院展
日本美術院メンバーは文展で大いに活躍を果たしましたが、残念ながら1911年に若き天才・菱田春草が病の為、他界してしまいます。この悲しみも束の間、画壇の革命児であった岡倉天心もその2年後の1913年に他界してしまいます。相次いだ日本美術院メンバーの死は同じ釜の飯を食った横山大観、下村観山にはあまりにも大きな悲しみでした。悲嘆にくれる中、横山大観が出した答えが亡くなった彼らの志半ばの想いを引き継ぐべく思い出の日本美術院を復活させる事でした。
こうして天心の死の翌年、1914年に第一回再興院展が行われました。以後、現在に至るまでずっとこの再興院展は継続して行われています。(2019年は第104回)
これが日本美術院の大まかな歴史です。
文展から改組 新 日展までの歴史
一方、国主催の官展としてスタートした文展ですが、現代に至るまでその名称を「帝展」→「新文展」→「日展」→「改組日展」→「日展」→「改組新日展」と変わっています。(2020年現在)
頻繁に名前が変わってしまっているので混乱されるかもしれませんが、基本的には同じ系統の展覧会と認識していただいて結構です。何故名前が変わったかというと簡単に言えば何らかの理由で運営体制が変わった為と認識してもらったら良いです。
以下、簡単に名称変更の理由について解説。
1919: 「文展」→「帝展」
日本最大の展示会としてスタートした文展ですが、審査員任命方式や授賞に際しての批判が内外から出ていた為に体制変更を行う。
1938: 「帝展」→「新文展」
「帝展」になっても文展時代と同様の問題がやはり発生したのと戦争の足音が聞こえる中、在野の団体も帝展にまとめこんで挙国一致体制につなげようと当時の文部大臣である松田源治が改組を行う。(1935年: 松田改組) しかしこの改革は美術家から大反対が起こった上に、張本人の松田源治が翌年死去した為に失敗に終わり、さらなる混乱を経て「新文展」という体制にやっと落ち着く。
1946: 「新文展」→「日展」
戦後になり、国の在り方含めて様々変更があったので名称変更。
1958: 社団法人 日展
戦後、運営を民営化しようと調整を図りながら運営してきた中で1958年に「社団法人 日展」として民営化される。1946-1957年の日展とは区別する為、1958年から展示会の回数をリセットして第一回日展としてスタート。
1969: 「日展」→「改組日展」→「日展」
1969年に法人組織の役員改選をきっかけに名称を「第一回改組日展」に変更するも、続かず翌年から「第二回 日展」と回数はリセットされるが名称は元に戻る。(なので第二回日展は1946年、1959年、1970年の合計3回もあるという…(汗))
2014: 「日展」→「改組 新 日展」
2009年に発覚した「コネ入選」問題をきっかけに体制一新。それに伴い2014年から「改組 新 日展」と名称変更し、現在に至る。(2019年 改組 新 第6回 日展)
とまぁこんな感じで日展は変化してまいりました。
一言…や、ややこしい…( ゚Д゚)
ひっかけ問題かと思うほどややこしいので、もう戦後は「日展」。それまでは「文展」→「帝展」→「新文展」という流れがあったけどすべて同じ系統の展示会だったという風に理解しておくくらいで良いと思います。(何かのテストに出たらすいません。)
以上、 日展と院展の歴史 について解説させていただきました。
動画解説
院展作家を世代別に分類してご紹介した動画はこちらをご参照ください。
参考文献
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