上村松園 まとめ

 

「美人画」は女性美をモチーフにした絵画のことを指し、江戸時代に庶民の間で流行した浮世絵の流れを汲む日本画のジャンル。その後、近代~現代に至るまで非常に多くの美人画の名手が誕生し、多くの人々の心を虜にしてきました。

その中で、「美人画の女王」と言っても過言ではない存在が日本を代表する女流画家・上村松園(1875-1949)です。

「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」

とまで言われる上村松園が描く美しい女性の姿は今なお多くの人々を魅了しています。

しかし、そんな清楚な美人画を描いた上村松園ですが歩んできた人生はまさに闘いの道。

今でこそ画家として活躍する女性も増えてきましたが上村松園の生きた時代の画壇は完全な男性社会。

女性は結婚をして家の事と子供の事をするのが当たり前という中、筆一本で食べていくと決意し、画壇で挑戦し続けたのが上村松園。

美しい美人画からは想像できない熱いロック魂を持った画家だったんですね。

今回はそんなロックな女流画家・上村松園をご紹介いたします。

レジュメ

 

1875: 京都の葉茶屋の次女として生まれる

父親は上村松園が生まれる2ヶ月に他界していたので母親が商売をしながら長女と次女の二人を育てる形となる。母・仲子は周りから

「一人で育てるのは無理やから再婚したらどうだ?」

「商売をしながら育てるのは無理だ。」

などの忠告を受けるもガン無視。「私が一人で商売もしながら育てたるわい!」と熱いロック魂を見せる。(仲子スゲェ!!)

仲子

母・仲子

 

事実、仲子は泣き言を言わず、親族を頼る事もせず一人で二人の娘を育て上げた。この頼れる母・仲子の存在は今後の松園の画風にも多大な影響を与える事となる。

 

1887: 京都府画学校入学。1st 師匠: 鈴木松年

小学校を卒業後、日本初の公立美術学校である京都府画学校に入学。12歳。(絵の道に進む決意するの早いな!)

当時は「女が絵描きになるなんて…」といった空気感の時代。当然、周りからの理解などなく相当の反対があったようですが母・仲子だけは「あんたの好きな道やもん」と後押ししてくれたようです。(仲子マジスゲェな!!)そういう意味では母・仲子は松園を育てただけではなく松園の芸術も育てたという事も出来る。

京都府画学校に入学して最初に教えを受けたのは鈴木松年という教員。

鈴木松年

鈴木松年

この鈴木松年は当時京都で鈴木派という一派を成し一大勢力を誇っていた人物。豪快な筆致が特徴的で松や日の出、富士などの作品を多く残しています。

非常に気性が荒かった反面、親分肌な所もあり生徒や弟子たちには人気があったようです。

松園も女で画家を志すロックな部分もあったので鈴木松年とは気が合ったようです。

鈴木松年が1888年で府画学校の教員を辞職すると退学し、松年塾に入る。(退学するんかい!!仲子もさすがに泣くぞ。)

上村松園の「松園」の画号は鈴木松年が与えたもので、自分の「松」の字と葉茶屋を連想させる「園」を組み合わせた画号だそうです。(なかなか松年センスあるやないかい)

 

1890: 画壇デビュー

上村松園の画壇でのデビューは早く、1890年に行われた第3回内国勧業博覧会というビッグイベントで「四季美人図」を出品。これが後の師となる竹内栖鳳や京都画壇の重鎮・山元春挙と並んで一等褒状受賞となり注目を浴びる。またその作品を来日中の英国コンノート殿下が買い上げた事で華々しいデビューを15歳にして飾る。(新聞紙上で「天才現る!」等と書かれた事から親族の掌の返し用は凄かったそうです。)

英国コンノート殿下

英国コンノート殿下

 

この「四季美人図」は同趣向の物が数種類現存しているが、おそらく上村松園が様々な依頼に応じて描いた物と考えられています。

上村松園 四季美人図

四季美人図

「四季美人図」は四人の女性を春夏秋冬になぞらえて描くもので、それぞれの女性に季節の装いをさせ、春から順に季節が進むごとに女性の年齢が上がる。それぞれの作品で多少細部が異なるが、本作品では、画面下から、春は琴を演奏する準備をしている娘、夏は団扇で涼をとる若い女性、秋は筆を手に短冊に和歌をしたためようとしている女性、冬は雪景色が描かれた水墨画の掛軸を広げてみる年嵩の女性が描かれている。

 

1893: 2nd 師匠 幸野楳嶺

さらなる高みを目指した上村松園は鈴木松年の許しを得て、新たな師の元で教えを乞う事になる。その人物が幸野楳嶺。

幸野楳嶺

幸野楳嶺

この幸野楳嶺は指導者として名を成した画家。その昔、幸野楳嶺がまだ若いころ、占い師に自分の画家としての未来を占わせた所、

「お前は画家としては二流に終わるが、お前の弟子から一流の画家が出るから指導に力を入れなさい」

というありがたい死刑宣告を受けたそうです。(つ、辛すぎる…)

その予言通り、幸野楳嶺門下からは竹内栖鳳をはじめとする多くの一流作家が生まれる事となった。

そんな幸野楳嶺ですが、鈴木松年とは犬猿の仲であったらしく画風も対照的。鈴木松年を豪の画風とするなら幸野楳嶺は柔の画風。(北斗の拳のラオウとトキのような関係性ですね。)

当初、上村松園は戸惑っていたらしいです。幸野楳嶺の画風を学ぼうとしてもそれまで学んでいた鈴木松年の画風が抜けなくて変に混ざり合ってしまったらしく中途半端な絵ばかりが出来上がるようになった。

スランプに陥った上村松園がたどり着いたのは

「両方の良い所取りをした上で自分の良い所も混ぜてオリジナルの画風にしよう!」

というなんともたくましい発想でした。(さすがロックの松園。心臓強いぜ!)

上村松園の面の皮の厚さが垣間見れた頃に、残念ながら2nd師匠である幸野楳嶺が亡くなってしまいます。松園が入塾して2年目という短い師弟関係でした。

 

1895: 3rd 師匠: 竹内栖鳳

幸野楳嶺が亡くなった後、その門人達は幸野楳嶺門下の四天王と呼ばれた菊地芳文、谷口香嶠、都路華香、竹内栖鳳の門下へ分かれる事となり、ここで上村松園は3rd師匠である竹内栖鳳に師事する事となる。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

この竹内栖鳳こそが幸野楳嶺門下の中から出た最も偉大なる画家であり指導者である。横山大観と並び称され「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれるほどであった。

この竹内栖鳳が弟子達に進めていたお品書きは「古画の研究」と「写実の探求」の2本立て。(要するにやまと絵から西洋画まで全部やれという事ですな…なかなかマッチョな教えですね。栖鳳先生。)

かくして上村松園は3人の師匠からそれぞれの画風を吸収し、天賦の才が開花し様々な展覧会で受賞を重ねていく。

 

1902: 長男・上村松篁誕生

上村松園は若くから画壇で活躍しましたが、男性社会の絵の世界でその才能に嫉妬する輩も多くその苦労は想像を絶する大変な物だったようです。

そんな中、スキャンダルが…

松園が長男を授かったのです。これ自体は喜ばれる事なのですが、なんと父親不明で未婚のまま母となったのです。(マジすか!?)

メディアが喜んで記事に書きそうな内容ですが、松園は一切父親の事は語らずにガン無視して絵を描き続けたそうです。(さすがアイアンハート!ロックだぜ)

ちなみにその長男が後の上村松篁で母と同じく画家になり、その子供(松園の孫)の上村淳之も画家となります。(DNA凄いね)

 

1904: 「遊女亀遊」事件

何かと話題の絶えない松園でしたが、やはり敵は多かったようで様々な嫌がらせを受けたそうです。

その代表的な事件が1904年のとある展覧会に出品した作品「遊女亀遊」に対する事件。

上村松園 遊女亀遊

遊女亀遊

この作品は江戸時代末期の開国後、武士が外国人に平身低頭を余儀なくされていた時代背景の中、横浜の遊女・亀遊アメリカ人の客を取らねばならなくなった時、それを拒み、

「アメリカ人がなんぼのもんじゃい!お前らに抱かれるくらいなら死んだるわぁ!!」

と言って自害をして大和魂の気概を見せたという話に材をとった作品。

逆境に立ち向かう誇り高き女性の凛々しい姿を描いたこの松園の作品ですが、なんと展示中に警備員の隙をついて何者かが落書したそうです。

事務所の方が松園の元に来て言ったのは

「あのままではみっともないから朝のうちに来て直してください。」

との事で特に謝罪もなかったそうです。

ロックな松園はブチ切れて

「私に嫉妬しての事でしょうが、作品に落書きするなんて卑怯な。文句があるなら私の顔に墨でも塗れば良いのに姑息な。何事もなかったかのように直して泣き寝入りなんてしません。そのままの現状を見てもらいましょう。」

と強硬姿勢を貫いたそうです。(さすがロック松園)

事務局慌てふためいて管理不足を平謝りしたので松園も一応は収めたそうですが結局落書のまま展示されたそうです。(犯人はわからなかったそうです。)

画題も誇り高きロックな女性を描いた物でしたからやはり松園も自分の心を曲げる事をしたくなかったのでしょう。

松園は後年

「今に見ろ。思い知らせてやる、と涙と一緒に歯を食いしばらされた事が幾度あったか知りません。」

と振り返る程、相当な修羅場を潜り抜けてきたようです。

ちなみにこの作品は展覧会後に物好きな人が欲しがったそうで、汚れは綺麗に拭き取る事が出来たそうです。(よかったね。)

 

1912: 大正の風潮

時代は1912年から大正時代に移りました。江戸時代の開国から明治時代に移り、ずっと欧米列強に劣等感を抱き続けてきた日本は日清・日露戦争に勝利する事により自信を取り戻します。

そんな自信が芸術方面に影響を与え、生まれた風潮が「個性と自由を尊ぶ」風潮。

「芸術は個性だぁぁぁぁぁ」といった感じのちょっと熱気ムンムンの暑苦しい時代です。

そんな時代背景の中、松園の美人画に対して

「上村松園の美人画は確かに美しいが人形のようだ。血が通っておらず女性の感情まで描けていない。」

といった内容の批判も出てくるようになります。

こういった批判を受け、松園は悩み、試行錯誤を繰り返していく事になります。(ディスられて黙っているタマじゃないよね。)

 

1914: 金剛 巌に能を習う

上村松園は手探りで新境地を求めようと1914年に能楽師・金剛巌に謡曲を習うようになります。

その結果として生まれたのが上村松園作品シリーズの中でも異彩を放つ二つの作品「花がたみ」と「焔」になります。

 

1915: 「花がたみ」

上村松園 花がたみ

花がたみ

謡曲『花筐』に取材した作品。恋人との突然の別れに身を焦がし、乱心状態で愛する人を追う女性。

この作品の細部の美しさはさすが松園と言える所ですが、最も注目すべきは描かれている照日の前の錯乱状態の顔。松園はこの表情を描く為に、京都の精神病院に赴き、実際に狂乱している女性をスケッチしたそうです。(すげ~な、その画家根性! そういった職人魂的な所が松園芸術の細部に宿っているのだと思います。)

さらに金剛 巌からのアドバイスで謡曲で使う能面の表情をも参考にしたそうです。

 

そして完成した表情がこちら。なるほど、確かに能面の影響が見て取れますね。

 

こちらの作品は写真では伝わりにくいですがとても大きいサイズの作品ですので、この顔のリアル感は生で見る事をお勧めいたします。

 

1918: 「焔」

上村松園 焔

謡曲『葵上』に取材した作品。光源氏の初期恋人である六条御息所が嫉妬に狂い相手を呪い殺さんとして生霊となった様子。松園作品の中では異色中の異色、ぞっとする恐ろしさが伝わってくるような作品です。(着物の柄が蜘蛛の巣って…ホラーですやん)

この作品でも顔の描写をどうするか悩んでいたようですが、金剛 巌から再びアドバイス。謡曲ではこの恐ろしい生霊verを表現するのに特別な能面を用いるそうです。それが目の白目と歯を金色に塗った「泥眼」と呼ばれる面です。(クリリンをフリーザに殺されてスーパーサイヤ人に変化した悟空みたいですね。)

泥眼

泥眼

ここからヒントを得て実際に松園は六条御息所の目の白い部分を絵絹の裏から金に塗ったそうです。(さすがに表からは塗らなかったんですね…(汗)。ほんのり隠し味程度に表現する所がさすが京都画家といった感じですね。あまりにもケバケバしいものを好まないというかわざとらしいのを好まないというか。でも十分この絵はパンチありますけどね。)

 

間近で見ないとおそらく感じる事が出来ないほどのほんのりとした隠し味なのだと思います。

ちなみにこちらの作品も実物は大きいですので迫力に実物を見ると圧倒されますね。

 

衝撃的な「花がたみ」と「焔」を描いた松園でしたが、この二つの作品を境に従来の自分の画風に戻ります。

大正時代の流れの中で新たな挑戦として真摯に取り組み、素晴らしい作品を生み出したがやはりそれは自分が目指していた芸術ではなかった事に気づき原点回帰します。(失敗やないよ!やらんとわからんかった事やしね。そういう事あるやん。やらんで後悔するならやって後悔した方がマシやってよく言うしね。)

ただ、新たな画風に挑戦する中で磨きをかけた技術によってこれまでと同じような画題に取り組む中でも細部にパワーアップが感じ取れるようになる。

 

1934: 仲子没

松園が59歳の時、最愛の母・仲子が亡くなります。

松園にとって最大の理解者であった母の追慕をこめて描いたのが「母子」。

上村松園 母子

母子

母子の姿を松園はこれまでも1899年「母子」、1932年「虹を見る」でも描いているがこれは松園が新たに切り開いた美人画の画題と言える。

松園が表現した母から子に向けられる愛情は明治初期に狩野芳崖が描いた傑作・悲母観音にも似た神秘的な神々しさすら感じる事が出来る。

 

1936: 「序の舞」

そんな母・仲子の死から2年。上村松園を代表する傑作が生まれる事になります。

それがあの「序の舞」です。

 

「序の舞」は能の舞の名称で松園は息子の奥さんに相当な準備をかけモデルにして本作品を描きました。

何度も何度も下絵を描き直してこだわって描いた超大作であり、静寂の中に舞う美しい女性の表現の中に、ほとばしる緊張感が見事に表現されています。

 

松園自身この作品をこう語っています。

「この絵は私の理想の女性の最高のものといってもよい、自分でも気に入っている『女性の姿』です。何者にも冒されない女性のうちに潜む強い意思をこの絵に表現したかったのです。古典的で優美で毅然とした心持ちを描き切れたと思っています。」

松園自身、女性として男性社会である絵の世界に飛び込み、大変な苦労を重ねながら修羅場を潜り抜けてきました。本人もその状況をまさに戦場で戦っているようだと表現するくらい・・・

そんな彼女だからこそ女性の内に秘められた覚悟や誇り、尊厳のような物の美しさを本作品では描き出せたのではないでしょうか。

本作品は自分が敬愛した母の生き方に対する賛美であり、自分の画業の集大成を伝える物であり、自身の新たな画境へ向かう決意表明である渾身の一枚なのかもしれません。

 

1941: 帝国芸術院会員 1944: 帝室技芸員

「序の舞」発表の後、松園は吹っ切れたかのように精力的に作品を発表していきます。

戦時中の時局を鑑みて「働く女性」をテーマにした「夕暮」や「晩秋」は日常生活で勤勉に働く女性に美しさを見出した新たな松園芸術の側面と言えます。

上村松園 晩秋

晩秋

 

1948: 文化勲章受章

まさに日本を代表する女流画家として長年にわたり活躍してきた松園は、1948年に女性として初の文化勲章を授与されます。

 

1949: 没

文化勲章受章の翌年、74歳でその生涯を閉じます。

絶筆は「初夏の夕」で1949年の作。最後まで精力的に筆を振るっていた事がわかります。

上村松園 初夏の夕

初夏の夕

 

総括

いかがでしたでしょうか?

上村松園の生涯をご紹介してまいりましたが、松園はこのような言葉を残しています。

「女性は美しければ良いという気持ちで描いたことは一度もない。一点の卑俗なところもなく清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。」

これは美人画とは外見の美しさだけではなく、女性が秘めている気高く誇り高い内面の美しさをも描き出す作品こそ自身の理想とする芸術であり、まさに自身が目指した女性の姿だったのかもしれません。

 

参考文献

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CEO Message

あなたと掛軸との懸け橋になりたい


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その場に最もふさわしい芸術品を飾り、凛とした空間をつくりあげる事に美を見出す・・・この独特な文化は世界でも日本だけです。

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代表取締役社長
野村 辰二

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会社概要

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商号
株式会社野村美術
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設立
1992年
資本金
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事業内容

  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
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