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曾我派のまとめ
曾我派(曽我派)は室町時代中期から江戸時代初期まで断続的に存在した漢画系画派。
全体的に謎が多い地方の画派ですが、戦国時代には桃山画壇4大巨匠である狩野永徳、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らと並び称される曾我直庵が存在します。
今回は諸説ある曾我派について最低限の整理をしてご紹介したいと思います。
曾我秀文
[読み] そが・しゅうぶん。曾我派の大元となった人物。正確な生没は不詳ですが15世紀から16世紀にかけて活躍したといわれています。元々は中国の明時代の人。(朝鮮人という説もあります。)本名は李。1424年に日本に渡ってきて越前国の朝倉氏に仕えて曾我姓を名乗るようになったと言われています。豪放な筆使いの南宗画を描き、後の曾我派の画風の基礎となりました。別人説もあったりと謎が多い人物です。
曾我墨渓(曾我蛇足)
[読み] そが・ぼっけい。曾我派の祖。生まれは不明ですが没年は1473年とも言われている。曾我秀文の子供という説も。「蛇足軒」と号し、彼より後の曾我派の絵師は「蛇足」の画号を用いるのが曾我派の特徴です。「曾我蛇足」としての名前の方が有名。天章周文に絵を学び、大徳寺を中心に活躍しました。
曾我宗丈
[読み] そが・そうじょう。曾我墨渓の子。曾我派の二代目。父親と天章周文に絵を学びます。
曾我紹仙
[読み] そが・しょうせん。曾我宗丈の子供。曾我派の三代目。1523年、「山水図」(根津美術館蔵)を描きました。
曾我宗誉
[読み] そが・そうよ。曾我紹仙の子供。曾我派の四代目。1562年、一乗谷での朝倉義景主催の曲水宴で歌を詠んだとされます。
曾我紹祥
[読み] そが・しょうしょう。曾我宗誉の子供とする説がある。それが事実であれば曾我派の五代目になるが確証はありません。本朝画史によると長谷川等伯(1539-1610)の師とされています。1573年、朝倉氏滅亡後、大阪・堺に移り住んだのではないかと考えられています。
曾我直庵
[読み] そが・ちょくあん。16世紀後期から17世紀初頭に活躍。曾我紹祥の子供。曾我紹祥が曾我派の五代目というのが不確実なので曾我直庵が六代目という確証はありません。ただ、本人は「蛇足六世」を名乗って堺で活躍し曾我派の立て直しを図りました。朝倉氏滅亡後、曾我紹祥と共に大阪・堺に移り住んだのではないかと考えられています。狩野永徳、長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人。1610年、豊臣秀頼奉納の「神馬図絵馬」(北野天満宮蔵)を描きました。鷹図を得意としました。
曾我二直菴
[読み] そが・にちょくあん。曾我直庵の子(諸説有)。それが事実であるなら曾我二直菴が曾我派の七代目となるが確証はありません。堺で活躍し、曾我直庵と同じく鷹図を得意としました。
曾我派はこの後、曾我二直菴の子である曾我三直庵、曾我吉重、玉翁(二直庵弟子)、田村直翁(直庵弟子)、曾我紹興(蛇足八世)、曾我紹叔(蛇足九世)と続くとされますがいずれも資料が少なく確かな事はわかっていません。
曾我蕭白
[読み] そが・しょうはく。 1730年-1781年。江戸時代中期の絵師。曾我蕭白自身は曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記しているが血縁関係は認められず曾我派との関連性はないと考えられています。
曾我蕭白についてはこちらの動画をご参照ください。