仏像の歴史 まとめ

 

 

目次

 

飛鳥時代 前半 592 – 645

日本の仏像の始まりは仏教伝来と時を同じくします。

日本に仏教が伝来したのは6世紀、百済より伝わったとされています。

#当時の朝鮮は高句麗、新羅、百済、伽耶に分かれていた。

#日本は百済と伽耶との連合軍で高句麗と戦ったりしていた→その影響で渡来人も日本に結構来て色々な文化が伝わってきていた。

#仏教伝来は『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』では538年、「日本書紀」では552年とされています。

#仏像や経典が百済の聖明王から送られたそうです。

 

仏教伝来により推奨派の蘇我氏と反対派の物部氏の間で争いが起こり、蘇我氏勝利により仏教奨励が決定。以後日本でも仏像が作られるようになっていきます。

この仏教伝来から大化の改新の645年までの飛鳥時代前半の仏像は「飛鳥仏」と呼ばれる事もあります。

#日本は百済と伽耶との連合軍で高句麗と戦ったりしていた→その影響で渡来人も日本に結構来て色々な文化が伝わってきていた。

#当時の政権をヤマト政権と呼んで有力豪族同士が権力争いをしていた。蘇我氏は渡来人の先進文化を取り入れる事で勢力拡大を狙い、仏教推奨したとも。

 

当時の中国は北魏と南梁の二つに分かれており、このどちらかの国の仏像の特徴が見て取れるのが飛鳥仏の特色。

北魏様式の特徴としてよく言われるのがアーモンドアイ、アルカイックスマイル、面長顔、左右対称性、正面性。代表的な仏師は鞍作止利(くらつくりのとり)。先祖は渡来人で、もともとは鞍(馬具)を作る馬具職人だったそうです。

 

北魏様式


 

飛鳥寺の釈迦如来坐像


飛鳥寺は蘇我氏の氏寺。当初の寺院は国家的な物というよりも各豪族の権力の象徴的な意味合いが強く、簡単に言うとそれまでの古墳の代わり的なイメージ。

飛鳥寺は別名を「法興寺」と呼び、後に平城京に移転された際に「元興寺」と名称を変えました。

ここにある釈迦如来像が日本最古の仏像と言われる鞍作止利の代表作です。

飛鳥寺 釈迦如来坐像

 

別名「飛鳥大仏」とも呼ばれる日本の初代・大仏です。

北魏様式の特徴の3つは顔に関係する物なので顔のアップを見てみましょう。

飛鳥寺 釈迦如来坐像

 

「アーモンドアイ」は名前のままで目がアーモンドのような形をしている事です。た、確かに似ている・・・

 

「アルカイックスマイル」は古代ギリシア美術の彫刻によく見られる特徴らしく、顔の感情表現を極力抑えながら口元だけは微笑みの形をとっているのが特徴です。何故こんな表情を昔の人はしたのかは謎です。確かに口元を隠してしまうと感情が全くないただの怖い像です。

アルカイックスマイル

 

「面長」はそのままで顔が長いという事です。どうでも良いですが耳デカ過ぎですね、飛鳥大仏。

「左右対称性」というのは正面から見て顔や服などが対称に見えるという意味合いです。確かに~~~。

「正面性」というのは前から見られる事を前提として考えられているので仏像自体の奥行的な物がないらしいのですが、横から見た資料がないのでわかりません。でも強烈なお顔だけでもうすっかり覚えましたので大丈夫です。

 

法隆寺の釈迦三尊像


法隆寺は奈良を代表する寺院で建立は聖徳太子。場所は斑鳩町で当時の政治の中心地である飛鳥からは少し離れます。

聖徳太子はこの斑鳩の地を中心に活動していましたが、病気になってしまいます。

病気の聖徳太子の回復を願って作り始められたのが釈迦三尊像ですが、残念ながら間に合わず、結局冥福祈願に目的を変えて完成しました。

こちらも鞍作止利の代表作です。

法隆寺釈迦三尊像

 

真ん中に釈迦如来で両側にお友達の薬上菩薩と薬王菩薩を連れている3人フォーメーションを三尊像と言います。この三尊パターンは色々な仏像や仏画でも様々種類があり、「脇侍(きょうじ)」と言います。阿弥陀如来の場合は勢至菩薩と観音菩薩とか本当に色々あるので「いっぱい三人パターンがあるんやな~」くらいの理解でとりあえずは良いと思います。

ここで「如来」と「菩薩」が出てきたので仏さんの種類の整理をしておこうと思います。

仏の種類

仏さんには大きく分けて4種類あります。「如来」「菩薩」「明王」「天部」です。

「如来」は悟りを開いた者です。まぁ、ゴールした人ですね。

「菩薩」は悟りを開く為に衆生を救い修行している者です。如来見習いみたいなもんですかね。

「明王」は怒っている者です。何故怒っているのかと言うと如来や菩薩みたいにニコニコしているだけでは言う事聞かない者もいるのでちょっと怒らんといかん時ってあるじゃないですか?

「あいつ、ちょっと調子にのってるから軽く絞めとかんと道踏み外して偉い事なるかもしれんからな・・・」みたいなノリですかね。

学校の先生が教え子を怒る時もこういった気持ちなのかもしれませんね。

「天部」は如来や菩薩をお助けする者で、元々はインドの神様です。仏教ってインドで生まれたんですけど、それまでのインドにはバラモン教って宗教があったんですね。今のヒンドゥー教の前身です。

このバラモン教の神様を吸収して生まれたのが天部です。

ちなみに山ほど種類がいるので「如来」「菩薩」「明王」以外はたぶん大体「天部」です。

「毘沙門天」とか「弁財天」とか「帝釈天」とか末尾に「天」が付く者や「四天王」や「十二神将」とか「八部衆」みたいなグループ、「金剛力士」みたいなコンビもいたりします。

 

悟り

ここで「悟り」というキーワードが出てきたので仏教の初期設定をご紹介しておきます。

宗教にはそれぞれ目的が設定されているのですが、仏教の目的はこの「悟り」を開いて「成仏する」=「仏になる」という事です。

仏教の初期設定ではこの世界は6つの世界(「天道」「人間道」「修羅道」「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」)に分かれるとされています。これを「六道」と言います。

だいたいどれもツライ事が大なり小なりある世界で必ずその世界で生きる人生には終わりが来ます。

その世界での終わりが来ると次はまたこの6つの世界のどっかに生まれ変わります。これを「転生」と言います。

転生先(来世)は今、生きている世界(現世)での良い事ポイントと悪い事ポイントの成績によって決定されます。

なので今、人間道にいる私は前の世界(前世)での成績によって人間道に生まれ変わって、この生涯を終える時に人間道での成績によって来世の転生先が決まるという事なのです。

せめて人間道以上には行きたいな~~~と思うのですが、結局この6つの世界をクルクルクルクル回っている限り永遠に苦しみからは逃れられないじゃないですか。

この6つの世界をクルクル生まれ変わる事を「六道輪廻(りくどうりんね)」と言います。

嫌です。

このクルクル回るラットレースから抜け出したいです。

どうすれば良いですか?

その答えが「悟りを開いて仏に成る」というのが仏教のゴールなんです。

この世界観を理解していないと日本の仏教って世界的に見ても変わっていてよくわからず迷子になる事が多いので参考にしてください。

 

さて、話を戻してこの法隆寺の釈迦三尊像ですが、基本的には鞍作止利の特徴が飛鳥大仏と同じで全て出ています。アーモンドアイ、アルカイックスマイル、面長顔、左右対称性、正面性でしたね。顔の特徴の為にアップ画像をどうぞ。このお釈迦さんもやはり耳デカいですね。

法隆寺 釈迦三尊像

 

法隆寺の救世観音像


作者は未定。鞍作止利やそのグループの作風とは若干異なりますが、北魏様式の特徴: アーモンドアイ、アルカイックスマイル、面長顔、左右対称性、正面性が見て取れます。

天衣の裾が左右に広がっているのと宝珠(なんでも願いが叶う玉。ドラゴンボール。)を両手で持っているのが特徴的ですね。この特徴が南梁や百済の仏像っぽいって意見もあるようですが一概に一概にどっち様式だって言い切りにくいんでしょうね。

法隆寺 救世観音

 

顔のアップ。アーモンドアイにアルカイックスマイルは感じ取れますね。ただ、この観音鼻デカいっすね。

 

 

南梁様式


南梁様式は北魏様式が正面性が強かったのに対して、横から見られる事も意識した奥行や立体感、丸みなどが備わっているという特徴があります。

飛鳥仏の中で南梁様式として有名なのは広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。

 

広隆寺(秦河勝、京都最古寺院)の弥勒菩薩半跏思惟像


当時の政治の中心は奈良県の飛鳥だった中、唯一の京都の氏寺。秦河勝という人の氏寺で聖徳太子にとても影響を与えたそうです。先祖は渡来人系でパワーを持っていた豪族のボス的存在だったそうです。

なんと京都最古の寺院。京都は寺院がとても多いですがその中で一番古いのがこの広隆寺…(;´Д`)シラナンダ

その寺院にあるの弥勒菩薩半跏思惟像がその南梁様式として有名です。

広隆寺 宝冠弥勒

 

「半跏」は片足を他の足の股の上に組んですわるポーズの事で「思惟」は考えているという意味です。

この半跏思惟ポーズは飛鳥~奈良時代、日本の彫刻史の前半戦ではよく出てくるポーズです。

特に多いのが「弥勒菩薩」の半跏思惟ポーズ。弥勒菩薩はお釈迦さんが亡くなった後、56億7千万年後に次に悟りを開く菩薩と言われています。遠い未来ですね~。よくそんな設定をしましたよね。ひょっとしたら弥勒菩薩が悟りを開く為に色々と思考している姿の像なのかもしれませんね。

半跏のポーズをするという事は必然と奥行や立体感、丸みなども出ますね。北魏様式の仏像と真横から見た図で見比べてみたいものですが資料がございませんのでこの斜めの図でご想像ください。

顔のアップがこちら。切れ長の目なのでアーモンドアイとは違うと思います。アルカイックスマイルはこちらにも当てはまりますね。北魏でも南梁でも両方影響しあっている部分はあるんでしょうね。

広隆寺 宝冠弥勒

ちなみに弥勒菩薩半跏思惟像で有名なのがもう一つ、奈良の中宮寺にあります。(こっちは白鳳仏として紹介します。)

見分け方は広隆寺の弥勒菩薩は宝冠、つまり冠被っているという所です。通称「宝冠弥勒」の異名を取ります。中宮寺の弥勒菩薩の頭は・・・ちょっと変わっているので乞うご期待。

 

飛鳥時代 後半 645 – 710

飛鳥時代は大化の改新以後を後半と捉えて、その時期の文化を「白鳳文化」と呼んだりします。なのでこの時期に作られた仏像は「白鳳仏」と呼ばれたりします。

#大化の改新は権力を牛耳っていた蘇我氏を中大兄皇子と中臣鎌足がコンビで倒し(乙巳の変)、「改新の詔」を発表して権力を豪族から天皇へ移した政治クーデター

#大化の改新から日本は天皇を中心とした本格的な律令国家(簡単に言うと法治国家)への整備を進めていく

 

この頃の日本は大化の改新後、中国(唐)を手本に天皇を中心とした本格的な律令国家への整備を進めていたので唐の文化の影響を多く受けました。

その中で仏教推進は国家的プロジェクトとなり、仏像制作も本格化していきました。

さらにこの時期には高句麗、百済が滅んだ為、亡命移民が急増しました。都だけでは収まらないので地方に移住する渡来人も増え、結果的に各地に製作技術が普及する事になりました。

仏像の特徴としては飛鳥仏と比べるとより丸みや立体感が増し、写実的になっていく。

 

法隆寺の観音菩薩立像


別名「百済観音」とも呼ばれる観音菩薩像。細見長身が当時の百済のブームだった為。

法隆寺_百済観音

 

壺を掴む指や腕の微妙な曲げ具合、壺の丸みなどの側面性の考慮などより写実的な表現が感じ取れます。動きが表現され始めているのがこの百済観音では面白いですね。

 

興福寺の仏頭


次は頭のみの紹介です。頭しか残っていないので逆にインパクトありますね(笑)

興福寺仏頭

 

顔が随分と丸くなりましたね。飛鳥仏の止利さんのはかなり面長でしたからそっから考えたら随分と人間らしくなりましたね。

眉毛も弧を描いてめっちゃ長いですね。お化粧して描いてる眉毛みたいです。鼻筋もしっかりと通って切れ長の目…ここらへんまで来るとアーモンドアイとは呼びにくくなりましたね。口ももはや笑っていないのでアルカイックスマイルではないと・・・。随分と飛鳥仏からの変化を見る事が出来ますね。

興福寺仏頭

よく見ると結構この仏頭男前ですよね、「白鳳の貴公子」なんて呼び名まであったりしますが実はこの仏頭「盗品」なんです。

元々山田寺というお寺にあったんですが、平安時代末期に興福寺が強盗に押し入り持って行っちゃったそうです。

しかも室町時代に興福寺が火災になり現在の頭のみの状態になっちゃったそうです。

しかもしかも、その頭を寺院の本尊の台座に収納して昭和初期まで忘れ去られていたという「盗まれて、壊されて、忘れ去られる」という三重苦を味わった「悲しき仏頭」なのです。

そう言われるとなんかこの仏頭泣いているようにも見えなくもないかな・・・(´Д`)チーン

 

中宮寺の半跏思惟像(伝・如意輪観音)


半跏思惟像の2体目は中宮寺の半跏思惟像です。1体目は広隆寺の時でしたね。広隆寺のは冠かぶっていたので「宝冠弥勒」などと呼ばれていましたが今回の半跏思惟像は「お団子頭」「ミッキーマウス」などと影で言われています。

中宮寺 半跏思惟像

 

た、確かに・・・( ゚Д゚) なんでこんな頭してるのかはよくわかりません。なんか当時の仏像特有の髪型らしいです。何が流行るかはわかりませんね。

中宮寺と聞いて「知らない」という人も多いと思いますが奈良の「法隆寺」のお隣さんです。

 

「近っ!!」 本当にお隣さんですね。猫が飼われているという情報が果たして要るのかどうかは議論の余地がありますね。

全体像を見てみましょう。

中宮寺 半跏思惟像

 

半跏思惟像らしく丸みと立体感がありこの時期の特徴を表していますね。顔はアーモンドアイではないですが微笑みはアルカイックスマイルですね。なんとこの微笑みはエジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザと並ぶ「世界三大微笑」のひとつ。凄いですね。これ以上に無い微笑みという事できっと隣の法隆寺の聖徳太子も微笑んでくれていると思います。

確かに広隆寺の半跏思惟像よりも微笑み力ではこちらの方が上のような気もします。

ちなみにこの半跏思惟像はお寺では「如意輪観音」と呼ばれる観音菩薩の一種と伝わっているそうですが、「弥勒菩薩じゃね?」とも考えられております。ここら辺は議論が分かれる所なんでしょうね。

 

法隆寺の観音菩薩立像


一般的に「夢違(ゆめちがい、ゆめたがい)観音」とも呼ばれています。悪い夢を見た時にこの観音に祈れば良い夢に変えてくれるというお話に由来するそうです。

法隆寺 夢違観音

 

丸顔に弧のような眉、切れ長の目に筋の通った鼻が「白鳳の貴公子」「悲しき仏頭」でお馴染みの「興福寺の仏頭」に通じてこの時代の感じをよく表現していますね。

法隆寺夢違観音0

 

法隆寺の阿弥陀三尊像


「橘夫人念持仏」とも伝えられているんですが、すいません。橘夫人がわからないのと念持仏がわかりませんね。

橘夫人というのは当時の権力者であった藤原不比等の奥さん。藤原不比等は大宝律令っていう法律作った人の一人です。当時の法律作った内の一人なのでとてもパワー持ってたんですね。その人の奥様なので奥様も相当パワー持っていた事でしょう。ちなみにこの二人のお子さんが聖武天皇の奥さんになって光明皇后になります。もう権力集まり過ぎですね。聖武天皇は後で出てくる東大寺の大仏作った天皇です。

念持仏というのは寺院用ではなく個人が家庭で拝むようの仏像という事です。「マイ仏像」ですね。この仏像が厨子(ずし)と呼ばれる箱に入って拝まれていたと考えられています。厨子は仏壇みたいなイメージで捉えておいたら良いのかな~と思います。

法隆寺 阿弥陀三尊像 伝・橘夫人念持仏

 

当時としては珍しい阿弥陀三尊像です。この頃は釈迦如来や観音菩薩、弥勒菩薩、薬師如来とかが多いイメージの中、阿弥陀さんの仏像です。三尊仏は法隆寺釈迦三尊像の所でも言いましたが脇に友達二人連れているバージョンですね。

こちらの阿弥陀さんも「白鳳の貴公子」「悲しき仏頭」の名前で知られる興福寺の仏頭の特徴とよく似ている「丸顔、弧眉、切長目、筋鼻」ですね。

法隆寺 阿弥陀三尊像 伝・橘夫人念持仏

 

 

奈良時代 710 – 784

都が平城京に移り奈良時代がスタート。この時代の文化を「天平文化」と呼び、仏像を「天平仏」と言います。

この時代は中国・唐の影響受けまくりの時代です。飛鳥時代から唐の影響はあったのですが、まだ唐も出来立てホヤホヤなのでそこまでパワーなかったのですが、この時代になると唐のパワーもエネルギッシュになるので当然日本も進んだ唐の文化を吸収しようと遣唐使を何回も送って吸収しようと努めるんですね。

その結果、More More 仏教推進を図り国家プロジェクトが立ち上がります。

そうなると予算もかけられるので様々な製作方法が生まれます。この時までのメインの製造方法としては金銅像と木彫りだったがこの時代のみ塑像と乾漆像が盛んになります。

塑像は簡単に言うと木の土台に粘土で作った物、乾漆像は漆を乾かす工程を用いた物で細かい表現を特徴としました。

当時、木彫りで用いていた木材では細かい表現に限界があった為、こちらの乾漆像の方法が採用されたと考えられています。但し、乾漆像は費用と日程がかかる為、奈良時代以降はあまり製作されなくなる奈良時代特有の製造方法と言えます。

この細かな表現が可能になったことにより、より写実的な表現を取り入れた仏像が生まれます。

この天平仏の一番のキーワードは「写実的」です。

顔の表情であったり、筋肉の隆起であったり、動きであったり、衣装の細かさであったりどこかで前時代とは違う「写実感」の変化があるのが特徴的です。

進化といった方が良いかもしれませんね。飛鳥仏⇒白鳳仏も写実の方に向かって言っていたのが天平で花開いた的なイメージです。

あと、唐から日本にやってきた鑑真の影響で肖像彫刻が始まった事も特徴的です。

 

鑑真


鑑真は日本に戒律を授ける為に唐から5回も渡航に失敗しながらも来てくれたお坊さんです。

戒律は簡単に言うと仏教のルールのような物でこれを授かる儀式をしないと一人前の僧侶として中国では認められていませんでした。

当時、遣唐使で唐に渡る僧侶もいましたがきちんと戒律を授かっていないので二流僧侶として扱われていました。

それを何とかする為に、戒律を授ける儀式が出来る僧侶の来日を唐にリクエストして来日してくれたのが鑑真さん。

ありがたいですね、5回も渡航失敗して最後失明までして日本に来てくれて日本の戒律の儀式の整備に尽力してくださるなんて。

聖武天皇は鑑真に授戒の権限を丸投げしたので鑑真は授戒の儀式を行うと共に、戒律などを学べる道場として唐招提寺を建立しました。

この鑑真の影響というのも今後の彫刻史では外せません。

 

密教


その他の特徴としては密教の影響もうす~く始まります。

「密教がわかりません」という方、多いと思います。普通はそうです、大丈夫。簡単に説明します。

一言で言うと「密教は仏教の最終アップデート版の教え」です。

元々、仏教はインドでお釈迦様が開いた物でした。これを原始仏教と言います。

お釈迦さんが亡くなってからもしばらくはこの原始仏教のままで良かったのですが、時代が進むとこの原始仏教のままだと時代に対応できない部分などが出てきました。

ここで「時代に即して変化していこうぜ派」「勝手に変えるのは良くないよ派」に分かれました。

この変化していこうぜ派を大乗仏教、変わらないでいこう派を上座部仏教と呼び、大乗仏教は中国、朝鮮、日本に伝わっていき、上座部仏教はスリランカ、ミャンマー、タイなどへ伝わっていきました。なので日本の仏教は大乗仏教です。

この大乗仏教は色々な変化を求めたので色々な経典や教えなどが生まれていき、発展して一世を風靡しました。

しかしその後、大乗仏教の勢いに陰りが見え始めます。

理由としては以下の通り。

・西ローマ帝国滅亡により大乗仏教のパトロンだった大商人が弱った

・インド土着の宗教であるバラモン教がアップデートされてヒンドゥー教になり人気が出た

・インドの西側のアラブ諸国のイスラム教も人気が出た

ここで大乗仏教もなんとか勢力を盛り返そうとアップデートして生み出されたのが密教です。

密教はこれまでよりも神秘的な儀式や象徴を大切にする事によって厳かな空気感を生み出して悟りの境地を表現しようとした事が特徴です。

また、大乗仏教時代よりもコアな哲学・思想を生み出していく中で密教特有の新たな仏が生まれた事も特徴です。

この密教の仏像が徐々にこの奈良時代にも作られ始めたというのが天平仏の特徴です。

遣唐使で唐に渡った僧の中でインドから中国に伝わりたてホヤホヤの密教を少し学んで帰ってきた人がいた影響ですね。

 

薬師寺の薬師三尊像


薬師寺は飛鳥時代に天武天皇が奥さんの病気回復を願って建てた寺院。

#残念ながら薬師寺完成前に天武天皇の方が亡くなってしまいますが奥さんは復活して持統天皇になりました。

 

その薬師寺にある薬師三尊像は平城京遷都に伴い、薬師寺が移転される前か後か未定の仏像です。移転前なら白鳳仏にあたり、移転後なら天平仏になります。今のところ天平仏説が有力との事です。

薬師寺 薬師三尊像

薬師如来の体つきも写実的でリアルな人感が感じられますね。ちなみにこの頃の薬師如来は薬壺を持っていないのが特徴的です。

そして注目は脇侍の日光菩薩と月光菩薩のボディです。薬師如来の方に腰をくの字に曲げてポーズを取っており、それに伴う筋肉の動きも大変自然。

こういった細かな動きの表現が出てくるようになったのも天平仏の特徴です。

薬師如来の顔はもはやアルカイックスマイルでもないしアーモンドアイでもないですね。どちらかというと興福寺の仏頭に近いような印象です。

薬師寺 薬師三尊像

 

 

東大寺の盧舎那仏坐像


奈良時代を代表する仏像と言えばやはり「奈良の大仏」で有名なこちらですね。

東大寺 盧舎那仏坐像

 

14.7mの大迫力の廬舎那仏です。仏の中でもボスキャラ的な扱いの仏です。

この巨大な大仏製作は聖武天皇によって計画されました。その背景には仏教を使って国を治めるという鎮護国家という思想が存在しました。

当時、日本では疫病が猛威を振るい天災が続いていた為、社会不安MAXの時でした。

そんな時に聖武天皇は仏教の力、仏の力を使って全てを解決しようと考えたのです。壮大な神頼みですね。

この計画には私度僧である行基の協力もあり260万人もの工事関係者が携わったとか…。まさに壮大な国家プロジェクトですね。

#私度僧=無許可の僧。当時は僧侶になるにも国の許可が必要でした。僧侶になれば免税などもありましたし民衆に勝手な事を布教されると困るからでしょうね。

 

興福寺の八部衆立像、十大弟子立像


はい、出ました。八部衆。如来でも菩薩でも明王でもない奴=「天部」ですね。如来と菩薩のサポート役。

十大弟子は釈迦の重要な弟子十人衆です。

この2チームの仏像群はほっそりとした肉体表現や眉などによる細かな表情がとても写実的です。

八部衆の中で一番有名なのが阿修羅像ですね。

興福寺 阿修羅像

 

阿修羅は顔3つと腕6本が基本スタイル。体つきは細マッチョで腕の複雑な動きもリアルですね。

お顔の方は本当に何とも言えない表情を表現するに至っています。この眉毛が本当にエモいですね。人気の理由がわかりますね。

興福寺 阿修羅

 

十大弟子の中で一番特徴的なのが迦旃延(かせんねん)の像。握り拳とメンチ切ってる顔が凄すぎて…(;^_^A

この口の絶妙な開き方とかスゴイリアルですよね。胸筋もリアルです。

興福寺 十大弟子立像 迦旃延

 

 

東大寺の執金剛神立像、四天王像 | 新薬師寺の十二神将立像


はい、執金剛神(しゅこんごうじん)、四天王、十二神将は全てお約束の「天部」です。あんまり聞いた事ない系はほぼ「天部」で良いのかもと思ってしまいますねwww

これらに共通するのは強調された動きや顔の表情、細かな甲冑などリアル感を感じられる所です。

執金剛神は金剛力士と同じですが、金剛力士は2人の裸形姿であるのに対し、執金剛神は1人の武将姿として造形安置されるのが一般的だそうです。

顔の表情パワフルですね。めっちゃ怒ってますやん。武将だけあって力強さが伝わってくる筋肉の動きや鎧姿ですね。

東大寺 執金剛神立像

東大寺 執金剛神立像

 

東大寺の四天王像は以前特別公開をしていたのでそのパンフをご覧ください。どれも表情豊かに怒ってますよね…(;^_^A そんな怒らんでも… 怖いですよ( ´艸`)

東大寺 四天王像

 

新薬師寺は有名な薬師寺とはまた別物の薬師寺で奈良にあります。十二神将は文字通り十二体あります。

新薬師寺 十二神将立像

その中でも伐折羅大将の表情が力強くてリアルですね。

新薬師寺 十二神将立像

 

 

東大寺の不空羂索観音立像


観音様は色々な経典の中で色々な姿に変化して人々を救うという風に考えられていたようで、密教系で変化した観音として不空羂索観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音などが有名です。

東大寺の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)もその一つで奈良時代に密教が伝わっていた事を示しています。ただまだこの時期の密教は煮詰まっていない雑な状態の密教だったようです。

東大寺 不空羂索観音立像

 

不空羂索観音の特徴は羂索(けんさく)というロープを持っている事です。このロープで誰も逃す事なく救うそうです。( ゚Д゚)カッコイイ

東大寺の不空羂索観音立像

 

 

葛井寺の千手観音菩薩坐像


葛井寺は「ふじいでら」と読み、大阪の藤井寺市にあるお寺です。藤井寺市は昔、藤井寺球場があり有名でした。もう無くなっちゃいましたけど( ノД`)シクシク…

その葛井寺にあるのが千手観音菩薩坐像。先ほども言いましたが不空羂索観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音は密教系の変化した観音です。

合掌する手を除いた1039本の脇手があり、うち38が大きな手で道具を持っているそうです。(えっ!? じゃぁ「千三十九手観音」やんって思ってしまった事をここにご報告させていただきます。)

葛井寺 千手観音菩薩坐像

通常は1000本の手を実際に作るのは造形上困難なので、40本くらいの手の物を作るのが多いのですがこの頃の本気具合が感じ取れますね。

ちなみに密教は神秘的な儀式や象徴を用いて厳かな空気感を大切にするので、そこに登場する仏様も超人的な姿の物が多く顔がいっぱいあったり腕が一杯あったり人間を越えたオーラを感じさせてくれる物が多いです。この顔や手が一杯ある事を「多面多臂(ためんたひ)」と言います。

 

 

唐招提寺の盧舎那仏像


東大寺の大仏と同じ廬舎那仏像ですね。こちらは鑑真さんの唐招提寺にあります。どっしりとした面持ちは迫力がありますね。リアル感満載です。

この仏像の特徴は背中の光背部分に1000体のミニお釈迦さんがいる事です。(現存864体)

唐招提寺 盧舎那仏像

凄い細かな装飾性ですね。千手廬舎那仏ではなく千釈迦廬舎那仏ですね(もはや訳が分かりません(;^_^A)。

とにかくこういった細かな装飾が出来るのも乾漆像のおかげですね。

 

唐招提寺の鑑真和上坐像


鑑真さんの亡くなるのが近いと察した弟子が急遽作らせたとされる日本最古の肖像彫刻。

唐招提寺 鑑真和上坐像

これまで実際の人の彫刻を作るという風習は日本にはなかったのですが、唐ではそういった文化があったので日本人が( ゚д゚)ポカーンとする中、鑑真さんのお弟子さんが何とかして偉大なる鑑真さんのお姿を残そうとして奮闘した努力の結晶と考えると感慨深いですね。

鑑真さんのお顔もとても穏やかです。本当にリアルですね。

唐招提寺の鑑真和上坐像

 

平安時代 前半 784 – 894

次が平安時代ですね。この時代は遣唐使が廃止される894年を境に前半と後半に分かれます。

前半の仏像を「貞観仏」と呼んだりします。

この時代の特徴は空海による密教の本格的な導入があります。

奈良時代にも密教の影響は多少あったのですがその頃の密教ってまだ雑だったんですね。

本場のインドでもまだしっかりと揉めてなかったんでしょうかね。密教もいきなり大乗仏教からアップデートされたわけではなく最初は入門書みたいなお経である大日経典が生まれて、その後本格的な内容の金剛経典というのが複数出来上がっていったので熟成されるまで時間がかかったんですね。

そしてその本格的にバッキバキに仕上がった密教を初めて日本に本格導入したのが空海さんだったわけです。

空海さんは遣唐使で唐に渡って、唐の偉大なる密教マスターである恵果和尚に弟子入りしてわずか3ケ月で密教マスターした傑物です( ゚Д゚)スゲーナ、オイ

そこから日本にも密教が本格的に伝わり、密教に特有の仏像が作られるようになりました。

どんな仏像かというと明王、観音、虚空蔵菩薩菩薩などです。

明王は仏の種類4種でご説明した怒っている仏さんですね。今では一般的な仏さんとして人気ですが明王は実は密教特有の仏さんなんです。

観音は飛鳥時代から作られてましたが、いろいろなお経で様々な形に変化して我々を救ってくれると説かれており、当然密教でも変化すると考えられています。

その中で特に良く取り上げられる変形系の観音が十一面観音、千手観音、如意輪観音です。

その他、虚空蔵菩薩も密教では重要視される仏です。

密教では神秘的な儀式や象徴を用いて厳かな空気感を大切にするので、そこに登場する仏様も超人的な姿の物が多く顔がいっぱいあったり腕が一杯あったり(多面多臂)、異様に怒った顔やくびれた体、厚化粧など人間を越えたオーラを感じさせてくれる物が多いです。

奈良時代の天平仏が写実的だったのに対して貞観仏は超人的だという風に理解すると何となくこの時代の仏像を理解しやすくなってきます。

その他の特徴でいうと木彫りの仏像が増加した事が挙げられます。

奈良時代までは塑像や乾漆像という手法が多かったのですが保存の面や手間、コストがかかる弱点がありました。

反面、木彫りでは細かい表現に限界があるという弱点がありました。

しかし鑑真さんが渡ってきてから色々と大陸の彫刻の知識も手に入り、彫刻に使用される木材がクス材から針葉樹に変化しました。

この針葉樹が非常に加工しやすく、木彫りでも細かな表現が可能となり主流になったと言われています。

なので塑像や乾漆像の製作技法は主に奈良時代のみの手法となったわけです( ゚Д゚)ナルホドネ

この加工しやすい針葉樹を用いて生まれた表現に「翻波式衣文」(ほんぱしきえもん)という物があります。

これは衣のシワの表現で波が翻転…翻って回転するような感じを与える表現です。

断面が丸く膨らんだ大波の間に鋭くエッジの利いた小波を入れた大波小波表現です。

具体的には下の写真をご覧ください。③の横から見た図だと大波と小波の違いが良く分かると思います。

翻波式衣文

 

こういった衣文の細かな表現も針葉樹に変えた事で木彫りでも可能になったんですね。

さぁ、以上のような特徴を見た上で具体的にどういった仏像があるのか見ていってみましょう。

 

東寺の五大明王像


東寺は嵯峨天皇が空海にプレゼントした真言宗広める為の道場ですね。

ここには密教に関わる仏像が数多くあります(そら空海の密教道場やからね)

今回はその中でも密教特有の仏と言われる明王のビッグ5である五大明王とそのボス的存在である不動明王をご紹介いたします。

まずは五大明王がこちら。ボスを中心に四体の明王を配置されています。皆、背中に炎背負って怒っています。

東寺 五大明王

 

こちらがボスの不動明王。座って怒っている姿が特徴的ですね。この時代以降、様々な明王の仏像が製作されていきます。

東寺 五大明王

 

観心寺の如意輪観音菩薩坐像


次が大阪にある観心寺というお寺にある如意輪観音菩薩坐像です。これは観音の変化ver.で密教で特に大切にされる観音です。

観心寺 如意輪観音菩薩坐像

 

「如意輪」は「如意宝珠」という珠と「法輪」という輪っかを合わせた言葉で両方ともこの如意輪観音が持っています。

この仏像では胸の前に持っているのが「如意宝珠」です。如意宝珠は願いが叶う珠なのでドラゴンボールです。

法輪は指の上に乗せて遊んでいる輪っかが「法輪」です。これは元々は武器で、そっから転じて煩悩を破壊する仏法の象徴となったものです。まぁ、煩悩を破壊する武器みたいな感じですかね。

この二つを持っているのが如意輪観音。そして座り方にも特徴があるそうで右ひざを立てて両方の足の裏を合わせて座る輪王座(りんのうざ)という座り方をするらしいです。昔、こういう座り方して指導する体育とか部活の先生っていたよな~、謎に威圧的でたまにグラサンとかしてた記憶が…。如意輪観音は優しくあって欲しいですね。

さて、如意輪観音は手が6本と超人的ですね。そしてお顔もお化粧をしたみたいにちょっと妖艶な雰囲気があるのが神秘的です。今までにはないオーラが感じ取れるのがこの密教仏の特徴ですね。

観心寺 如意輪観音菩薩坐像

 

 

法華寺の十一面観音菩薩立像


次は奈良の法華寺にある十一面観音菩薩立像です。法華寺は奈良時代に全国に作られた国分尼寺のボスですね。

#国分寺のボスは東大寺。国分寺は男性の僧侶、国分尼寺は女性の尼僧が在籍しました

 

十一面観音菩薩も密教系の変形観音です。

法華寺 十一面観音菩薩立像

 

頭に11面の顔があるのが特徴です。

法華寺 十一面観音菩薩立像

こちらの仏像は珍しいロン毛の仏像で先程の如意輪観音と同様妖艶な雰囲気ですね。くびれもスゴイ!光背が蓮なのも独特です。

法華寺 十一面観音菩薩立像

 

翻波式衣紋もありこの時代の特徴がとてもよく出ていますね。

法華寺 十一面観音菩薩立像

 

室生寺の釈迦如来坐像


「女人高野」としても知られる奈良県の室生寺。

この室生寺にある釈迦如来坐像は翻波式衣文の特徴が良く出ている代表例です。

室生寺 釈迦如来坐像

室生寺 釈迦如来坐像

 

室生寺の薬師如来立像(伝、釈迦如来)


特殊な例としてご紹介したいのが同じく室生寺の薬師如来立像(お寺では釈迦如来と伝えられてきたそうです)。

艶やかな彩色の光背が印象的であり、翻波式衣文に截金という薄く切った金箔の筋で紋様を装飾する技法を用いている極めて装飾性に富んだ仏像です。

室生寺 薬師如来立像

 

神護寺の薬師如来


次が京都・神護寺の薬師如来です。神護寺は京都北西の山中にあり、紅葉の名所として有名な寺院です。

薬師如来は別に密教関係なく奈良時代からでも作られてきた仏像ですがこの神護寺のはちょっと違います。それがこちら。

神護寺 薬師如来

神護寺 薬師如来

こわっ! めっちゃ強面で怒ってますやん…( ゚д゚)しかも不動明王みたいに明らか怒っているというより静かに怒っているこっちの方が余計に怖い(汗)

これまで作られていた仏像もこの時期はちょっと威厳を出してみたりして超人的なオーラを表現していたのかもしれませんね。

ちなみにこの頃から薬師如来は薬壺を持つようになっていきます。

 

新薬師寺の薬師如来坐像


同じく薬師如来なのですがこちらは奈良の新薬師寺です。「新」の方です。奈良時代の十二神将でご紹介した寺院ですね。

新薬師寺 薬師如来坐像

 

こちらの薬師如来は巨大な目が特徴的です。同じく超人的な表現の一種だったのでしょうか・・・薬壺は持っています。

新薬師寺 薬師如来坐像

 

薬師寺・休ヶ岡八幡宮の八幡三神像


次に注目したいのがこの時期には日本の神様の像、『神像』が作られるようになったという事です。

この頃になると日本の土着の神様、つまり神道の神様と仏教の仏さんってどういう関係なのかなって考え出すようになりました。

その結果、仏様が姿を変えた物が日本の神様だという風に考えるようになりました。これを神仏習合と言います。

この流れから仏像だけではなく神像も作ろうとなったわけです。

薬師寺・休ヶ岡八幡宮の八幡三神像は真ん中が僧の姿をした八幡神(はちまんしん)で向かって右に神功皇后(じんぐうこうごう)、左に仲津姫命(なかつひめのみこと)を配した神像です。

薬師寺・休ヶ岡八幡宮の八幡三神像

 

八幡神は日本神話で応神天皇と同一視される為、母の神功皇后と妻の仲津姫命のセットになります。

この様に神道の神様や日本の神話に関する人物などの神像が作られるようになってくるのもこの時代の特徴です。

 

平安時代 後半 894 – 1185

さて、平安時代も後期になるとこれまで大変お世話になっておりました中国の唐様も衰えてきておりまして遣唐使が遣唐使が廃止になりました。それが894年。

これ以後、日本の国内ではこれまでの外来の文化に対して自国の文化である和様という物に目覚めていきます。

これを「国風文化」と呼び、日本独自の物が生まれていきます。ひらがななどもそうですし、絵画の世界では大和絵というジャンルが生まれていきます。

それが仏像の世界でも現れ、和様の表現が生まれてきます。

和様の表現はどんなだったかというと「穏やかで優しい」表現が多くなりました。

お顔立ちもそうですし、衣の表現や動きなども激しくない物がトレンドになっていきました。

その和様の仏像を作る人で後世まで影響を与えた人物が 定朝 (じょうちょう) です。

定朝の家系はかの藤原氏に重宝され力がありました。

定朝のお父さん(とされる康尚)は藤原道長、 定朝自身は藤原頼道と仲良しこよし。

この二世代に気に入られていればこの時期は怖いものなしという事で様々な仕事を受けました。ちなみにこの時期の仏像を「藤原仏」などと呼んだりもします。

そしてそんな 定朝が得意とし、完成させた制作手法が「寄木造」です。

これまでの木彫り仏像は基本的には1本の木から作られていたので大きさにも限界があったのですが、この寄木造は1本の木から各パーツを作り出し最後に合体させたら巨大な仏像も作れて分業制でいけるよねっていう方式です。プレモデルみたいなイメージですね。

この寄木造で巨大な仏像を効率よく製作する事が出来、また分業制により工房化していきました。

ちなみにこの寄木造の手法は中国にはなく日本独自の手法らしく国風ってますね。

さて、このような流れの中でどういった仏像が作られていったのかですがこれまでと同じくオーソドックスな仏像や密教系の仏像ももちろん相変わらず作られていたのですが、この時期から阿弥陀如来像の製作が増えていきます。

これは何故かというとこの時期から浄土信仰が広まっていったからです。簡単に言うと死後、来世で極楽浄土という阿弥陀さんの住んでいるハッピーな世界に生まれ変わって悟り開いて仏になろうという信仰です。

何故この浄土信仰が広まったかというと末法思想という考え方が広まった為です。これはお釈迦様が開いた仏教の教えが時代を経る毎に効果を失い、最終誰も救われない残念な世界=末法の世になるよ~という考え方です。それがいつから始まるとされたかというと1052年でどれだけ続くかというと10000年間続くとされてきました。

もうね、ノストラダムスの大予言の時並みに貴族達は大パニックですよ。

藁にもすがる想いで救われたいと願う心にフィットしたのがこの浄土教の教えだったんですね。阿弥陀さんにお願いすれば死後、救いに来てくれるという考え方。

これが大ブレイクを果たすわけです。この時に活躍したお坊さんが空也さんや源信さんです。法然さんや親鸞さんよりも前世代の浄土教のお坊さんです。

そしてこの時の考え方で仏像や寺院を沢山作れば作るほど良い事ポイントが貯まって極楽浄土へのお迎えの方法も豪華になり極楽浄土の特等席に行けるという考え方が背景にあった為、貴族が財を投入して大量の寺院や仏像が作られるになりました。

さて、こんな感じの平安時代後期ですがどんな代表作があるのか見ていってみましょう。

 

平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像


さて、この時代を代表する仏師である 定朝ですが、なんと確実に彼が作った作品として現存しているのは1点のみだそうです。( ゚Д゚)スクナ…

しかしこの1点が代表作として足るべき素晴らしい作品なのです。

それが京都の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像です。

平等院鳳凰堂というと藤原頼通が極楽浄土をイメージして作った寺院でそこの主ともいうべき阿弥陀如来が 定朝の代表作です。

平等院鳳凰堂 阿弥陀如来坐像

平等院鳳凰堂 阿弥陀如来坐像

 

全体に丸みを帯びた柔らかな曲線と優しいおっとりとしたお顔立ちがまさに 定朝様とも言われたこの時代の彫刻の特徴。

彫りが浅いのでコントラストもきつくなく静寂で上品な印象を与えるのが和様の特徴ですね。

 

 

院派、円派、奈良仏師


さて、藤原氏に気に入られて力を持った 定朝ですが、没後どうなっていったかというと3つの派閥に分かれます。それが院派、円派、奈良仏師です。それぞれの担当は以下の通り。

院派=正嫡→藤原摂関家関係 担当 (今、美味しい部分)

円派=傍系→白河上皇、鳥羽上皇 担当 (後から美味しい部分)

奈良仏師系=藤原氏の氏寺・興福寺関連 担当 (ハズレくじ)

もちろん各担当クロスオーバーする部分はありますが、基本的にはこんな感じで役割分担する形となりました。

 

法界寺の阿弥陀如来像


定朝様式をよく受け継いだ丸みがあり優しく穏やかな気品ある雰囲気が特徴的な作品です。

法界寺 阿弥陀如来像

 

蓮華王院(三十三間堂)の千体千手観音菩薩立像


さて、 定朝系以外のこの時代の代表作として挙げられるのが京都の蓮華王院(三十三間堂)の千体千手観音菩薩立像です。

千手観音は密教系の観音で特に手が千本あるという派手さからか昔も今も人気ですね。なんか格好良く感じますよね。漫画とかのモチーフにもよく使われていたりします。

この千手観音をなんと千体も作るという恐ろしい事をやってのけたのが平清盛です。

平清盛は当時ブイブイ言わせていた後白河上皇に資材協力をしてこの寺院が誕生しました。

これはまさに大量生産の例ですね。この時代の権力者がいかに良い事ポイントを稼ごうとブッコんでいたかが良く分かりますね。

残念ながら当初の千体はその後の火災により9割くらい焼けちゃったようです(´;ω;`)ウゥゥ

その後、鎌倉時代に再興されて現在の姿のようになったようです。ちなみに三十三の柱同士の間があるから三十三間堂らしいです。

蓮華王院(三十三間堂) 千体千手観音菩薩立像

 

 

浄瑠璃寺の九体阿弥陀如来坐像


京都の浄瑠璃寺にある九体阿弥陀如来坐像は唯一現存する九体阿弥陀。

この当時、良い事ポイントの得点によって極楽へ行く際の迎えに来られ方も9種類のランクがあると考えられていました。当然、高得点は如来や菩薩がいっぱいでゴージャスに迎えに来てくれますが点数が低ければ質素なお迎えになります。しかもその迎え入れられる極楽浄土の場所も得点によって良い席から末席があるような考え方もあったとか…(九品往生と言います)

なんか格付けみたいですね、得点によって扱いが違うというのも…(;^_^A

この考えの元、9通の阿弥陀如来を作ろうというのが流行ったんですね。残念ながら唯一現存している9体セットというのがこの浄瑠璃寺の物です。

浄瑠璃寺 九体阿弥陀如来坐像

 

臼杵磨崖仏


この京都での仏像製作のトレンドは地方にも伝播していきます。

南での伝播の例として大分県の臼杵市にある臼杵磨崖仏があります。磨崖仏は石を削って作られた仏像の事で、仏像の様式からこの当時の物だと考えられています。

臼杵磨崖仏

 

中尊寺金色堂


地方伝播の北での例は岩手県平泉にある中尊寺金色堂。奥州藤原氏の財力と勢力の高さを伺い知ることが出来、平等院鳳凰堂と並び称されるこの時代の浄土教建築の代表例。

中尊寺金色堂

 

 

鎌倉時代 1185 – 1333

さて、貴族が繁栄した平安時代が終わり次からは武士の政権になった鎌倉時代ですね。

この時代には前時代からの大きな宿題が残されていました。

それはなんなのかというと平家によって行われた「南都焼討」による興福寺と東大寺の復興です。

当時、興福寺とトラブっていた平家は奈良に攻め入って焼討にし、興福寺や東大寺が焼け落ちてしまったんですね。

この寺の復興が次の時代の課題となりました。

興福寺は朝廷、藤原氏、興福寺の3者で費用と権限を分担し、仏像界の力関係によりメイン所は院派と円派が担当。奈良仏師はサブ的な所を担当する事になった。

ここら辺から奈良仏師から慶派と呼ばれる派閥が生まれてきます。

この慶派は興福寺復興ではそれほど良い仕事が回ってきませんでしたが、鎌倉幕府からお呼ばれして鎌倉で仕事をする機会が増えます。

これは当時の政権を担っていた源氏が平家などの旧勢力と繋がりの強い院派や円派を嫌って慶派に依頼したとも言われています。ここにきて奈良仏師の慶派に形勢逆転の芽が出てきたといった感じですね。ここらへんで慶派をまとめていたのが運慶であり、弟弟子に快慶がいます。

さて、東大寺の復興に関しては重源というお坊さんが全面的な責任者として朝廷から抜擢されます。

この東大寺の復興事業も当初は院派や円派が主力だったのですが、徐々に慶派が台頭してきます。その理由として以下が考えられます。

・興福寺の仕事で慶派が高評価を得た

・贔屓にされている鎌倉幕府からのねじ込み

・重源の快慶推し

これらの要素が複雑に絡み合い、東大寺復興は徐々に慶派の独壇場となっていきます。

#重源は非常に浄土教を信仰していたお坊さんであり、快慶も熱心な浄土教の信者。重源が浄土教信仰繋がりの快慶のいる慶派を取り立てた事も一因と考えられています

 

この慶派の作風というのは藤原仏の時の定朝様とも呼ばれる穏やかなコントラストの少ない落ち着いた雰囲気とは異なり、天平仏の人間味あふれた写実性をベースに力強い宋風式を取り入れた新様式でした。

元々慶派は奈良仏師なので天平仏の作風がベースにあるというのは納得できますね。

宋風の影響は恐らく重源の影響が関係しているのだと考えられています。この重源さんは大の宋贔屓で3回も宋に渡って進んだ文化を勉強してきました。

東大寺復興を指揮する中で、その宋の彫刻の指導が慶派にあったのでしょう。

こうして生まれた慶派の作風は力強く(コントラストのはっきりした彫口)写実的な特徴を持ちます。

さて、ここまで踏まえた上で実際の慶派の作品を見ていってみましょう。

 

東大寺南大門の金剛力士像


運慶と快慶の代表作として最も有名なのが東大寺南大門にある金剛力士像になります。

迫力の肉体美と表情は慶派の特徴である写実性とコントラストの強さによる力強さが顕著に出ていますね。

東大寺南大門 金剛力士像

一昔前までは運慶と快慶の共同制作のように考えられていましたが、近年の大規模な修理により運慶は総合監督的ポジションで製作を指揮し、快慶をはじめとする複数人の慶派の仏師が関わった事が判明しました。

まさに慶派の魅力が詰まった日本彫刻の金字塔とも呼べる作品です。

 

興福寺北円堂の無著・世親立像


運慶最晩年の傑作として名高い興福寺の無著・世親立像(むじゃく・せしんりゅうぞう)。

無著・世親は5世紀ごろにインドで活躍した兄弟の学僧。

無著

無著

世親

世親

 

コントラストの強い衣文もさることながらやはり写実的なお顔が凄い!!

無著

 

「玉眼」といって水晶を目玉にはめ込んで使う事でリアルな目の表現にしているそうです。

世親

世親

 

願成就院(静岡)の毘沙門天立像


鎌倉地方と運慶の繋がりを示す作品。毘沙門天は天部ですね。七福神にも取り入れられているので日本人にはなじみ深いですね。

願成就院 毘沙門天立像

 

全体的に動きもあり、表情も玉眼を用いて写実的ですね。コントラストのある彫り口の鎧も運慶らしいですね。

願成就院 毘沙門天立像

 

東大寺の俊乗房重源上人坐像


こちらは東大寺の復興の全面指揮を執った重源さんの肖像彫刻。運慶の作かも?と確定ではないですが言われています。

リアルさは天平仏の鑑真和上の肖像彫刻を感じさせるが衣文のコントラストの強さは運慶っぽいですね。

俊乗房重源上人坐像

 

高野山金剛峰寺の八大童子像


こちらも運慶作が有力視されている作品。不動明王に従う8人の童子の作品。動き、玉眼の違い、表情などそれぞれの像のバリエーションの多さが写実表現の妙です。

以前行われた展覧会のパンフをご覧ください。

高野山金剛峰寺 八大童子像

 

 

東大寺の僧形八幡神坐像


続いて快慶の代表作を見ていってみましょう。

快慶は運慶と同じ慶派に属していながら少し作風が慶派の中でも異なります。

奈良仏師らしく写実的な表現は同じなのですが、絵画的と評される程に線構成が穏やかで美しいのが特徴です。コントラストがあり力強い運慶とは対照的ですね。

そんな特徴が良く表れているのがこの東大寺の僧形八幡伸坐像。

東大寺の僧形八幡神坐像

 

全体的に柔らかみのある曲線で彫られた姿は上品ですね。彩色も美しいですね。

貞観仏でご紹介した薬師寺・休ヶ岡八幡宮の八幡三神像の僧形八幡神と比べるとその違いが歴然としますね。(まぁ、大きさも全然違いますが)

 

浄土寺の阿弥陀三尊像


快慶は熱心な浄土教の信者だったので阿弥陀如来の作品数が多いのも特徴です。そのおかげで重源に気に入られたとも言われていますしね。

そんな阿弥陀三尊があるのが兵庫県小野市の浄土寺。穏やかな衣紋線や表情は快慶らしいですね。阿弥陀如来へのリスペクトが感じられるようです。

夕方になると、阿弥陀如来がある浄土堂内西側の蔀戸から西日が射し、床に反射して、仏像は赤く染まっていくという幻想的な見え方がするそうです。

浄土寺 阿弥陀三尊像

 

高野山光台院の阿弥陀如来立像


快慶は阿弥陀如来像の中でも「三尺阿弥陀」と呼ばれる小型の阿弥陀如来像を数多く製作した事でも有名です。

高野山光台院の阿弥陀如来立像もそんな三尺阿弥陀です。小型になっても快慶の特徴である上品な雰囲気はさすがですね。

高野山 光台院 阿弥陀如来立像

 

醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像


快慶の最高傑作のひとつとも呼び声が高い京都・醍醐寺の弥勒菩薩坐像。切れ長の目や穏やかな衣紋線や表情は相変わらずなのですが、細かな装飾性もレベルが高くさすが快慶の最高傑作のひとつと呼ばれるだけの事はありますね。

醍醐寺三宝院の弥勒菩薩坐像

 

興福寺の天燈鬼・龍燈鬼立像


鎌倉時代を代表する運慶と快慶の作品以外の慶派の有名作品も見ていってみましょう。

興福寺の興福寺天燈鬼・龍燈鬼は運慶の三男の康弁の作で普段は四天王のやられ役なのですが今回は仏前を照らす役割を与えられた姿に変化しているのが面白いですね。

興福寺天燈鬼

天燈鬼

興福寺龍燈鬼立像

龍燈鬼

 

六波羅蜜寺の空也上人像


平安時代の浄土信仰、末法思想の説明の時に出てきた初代・南無阿弥陀仏 兼 踊念仏の空也上人の肖像彫刻。作者は運慶の四男である康勝。

開いた口から6体の阿弥陀仏が現われる様は、空也上人が「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているのだそう。ユニークな発想ですね。

六波羅蜜寺 空也上人像

 

高徳院の阿弥陀如来坐像

「鎌倉大仏」として有名な阿弥陀如来坐像。こちらは慶派の作品ですが作者は未詳。ただ、慶派の作風と宋の作風が色濃く表れている鎌倉時代を代表する作品です。

高徳院 阿弥陀如来坐像

 

明月院の上杉重房坐像


神奈川県の明月院にある上杉重房坐像は武士の肖像彫刻。この頃、絵画で武士の肖像画を描いた「似絵」が生まれたように武士の肖像彫刻も製作されるようになっていきました。

明月院(神奈川)の上杉重房坐像

 

以上、鎌倉時代に活躍した慶派の動きを見てきましたが、その他の院派や円派はどうなっていったかというと実は弱っていってしまいました。

原因としては承久の乱で敗れてしまった朝廷は幕府にその力を抑えられてしまい凋落していったのでそこら辺をお得意様にしていた院派や円派は食い扶持を探す為に地方に仕事を求めて伝播していきました。

 

室町時代 1336 – 1573

さて、慶派が活躍した鎌倉時代を越えると一気に日本の仏像史は静かになっていきます。

もちろん素晴らしい作品も生まれるには生まれるのですが全体としては大規模な造仏は減少していきマンネリ化、形骸化が進んでいってしまいます。

大規模な造仏が減少した背景には一つに鎌倉時代に生まれた新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗)にとって仏像がそこまで重要ではなかった事も挙げられます。

これを頭に入れた上で室町時代を見ていってみましょう。

 

京都


京都を中心に活動をしていた慶派、院派、円派の伝統一派は作風がマンネリ化し、分派により工房の規模も小粒化していきブランドが凋落していった。

#この頃になると慶派は拠点から「七条仏所」と呼ばれるようになる。院派は元々「七条大宮仏所」、円派は「三条仏所」と呼ばれたりもしていた。

 

さらに将軍家の跡継ぎ問題に端を発する大規模な戦乱である応仁の乱が約11年間、京都を舞台に起こり京都は焼け野原となりました。

こうした内乱の京都とは逆に地方では守護大名が力を付け自国の文化隆盛を図っていた事もあり、地方に移り住む仏師も多くさらに分裂は加速していきかつての伝統一派は弱体化していきました。

 

鎌倉


室町時代になっても鎌倉の地は前時代の余韻で造仏が盛んでした。この地では宋元文化の影響を受けた特殊な表現の仏像が多いのが特徴です。

片足を軽く前へ投げ出した(足を崩した)座り方の「遊戯坐(ゆげざ)」スタイルや法衣が台座から長く垂れる「法衣垂下像(ほうえすいかぞう)」などの例が挙げられます。

東慶寺の水月観音菩薩遊戯坐像

東慶寺の水月観音菩薩遊戯坐像

来迎寺(西御門)岩上地蔵菩薩坐像

来迎寺(西御門)の岩上地蔵菩薩坐像

 

奈良: 長谷寺の十一面観世音菩薩立像


奈良は複数の小さな仏所がそれぞれ活動している状況でしたが、室町時代後期に希少な傑作が誕生します。それが長谷寺の十一面観世音菩薩立像です。

初代の観音像は721年に製作されたという伝承があるのですが、その後幾度もの焼失により現在の物は1538年に再興された8代目の物で高さ1018 cmの日本最大級の木造仏です。

毎年春と秋にこの観音様の足に触れる事が出来る特別拝観があるそうです。

 

大徳寺酬恩庵の一休宗純像


鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗)は仏像の重要性はそれほど高くはなかったのですが、禅宗(曹洞宗、臨済宗)では師匠の肖像画や彫刻である頂相の製作が盛んに行われたので多くの肖像彫刻が生まれた。

大徳寺酬恩庵の一休宗純像もその一つで一休和尚自身の髪や髭を植え付けて製作したといわれています。

大徳寺酬恩庵の一休宗純像

 

桃山時代 1573 – 1603

桃山時代は室町時代の閉塞感を打ち破るような動きがいくつかありましたのでそちらを見ていきましょう。

 

方広寺の大仏


鎌倉時代に慶派によって復興した奈良の大仏(2代目)は残念ながら戦国時代に松永久秀の戦場になり再び焼失してしまいました。

豊臣秀吉は東大寺の大仏の再興の代わりに京都にそれを凌ぐ大仏造立の計画を立て威信をかけて実行します。

めでたく1595年に完成しました。なんと19mの国内最大の「京都の大仏」が誕生しました。(奈良の大仏は14.7m)

奈良仏師の奈良仏師の宗貞と宗印の作。

 

金峯山寺蔵王堂の蔵王権現立像


奈良県の吉野山にある金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂(ざおうどう)の本尊の蔵王権現立像は方広寺の大仏を製作した宗貞・宗印兄弟作と考えられています。

真ん中が7m、両脇の像が6mの巨大仏像で日本独自の修験道の本尊です。修験道は山に籠って修行して悟りを開くという山岳信仰で日本独自の宗教とも言え、実践者を山伏と言います。

こちらはJRのパンフ。明王にも似た鮮やかな青色に力を感じますね。

金峯山寺(奈良)蔵王堂の蔵王権現立像

 

東寺金堂の薬師三尊像


慶派の21代目を継ぐ康正はこの時代を代表する仏師で慶派の最後の星でもありました。

東寺や蓮華王院などの古仏の修復などを手がけ、特に東寺金堂の薬師三尊像は平安遷都直後に造られた当初の復興像で、古式の像を忠実に再現しながら衣文の彫りの力強さは運慶を感じさせる秀作として評価が高いです。

東寺金堂の薬師三尊像

東寺金堂の薬師三尊像

 

江戸時代 1603 – 1868

江戸時代になると江戸幕府による本末・寺請制度により民衆は寺の檀家となり戸籍管理されるようになりました。

そうなると各寺院の整備復興需要が起こり、仏像の新造や修理の需要が一時的に増加しました。

ただ、この時代の人々が求めた仏像観は今まで見慣れてきた平安後期や鎌倉時代の仏像であった為、基本的には形式化されたスタイルの仏像の範囲を脱する事はありませんでした。

唯一この江戸時代初期に活躍した慶派21代目の康正のグループも幕府関連や大寺院の仕事を受けていましたが、世代が進んでいくと求心力が弱まっていき、その他の京都町仏師に勢いを奪われていきました。七条仏師(慶派)は活動範囲を幕府御用や比叡山に限定しながらもなんとか幕末まで系譜を続けました。

18世紀になると寺院による仏像受も落ち着いたのと幕府は財政再建の為、3尺以上の仏像制作を許可制にしたりと制限を掛けたので需要は激減しさらに仏像制作の技術は衰退していきました。

基本的な流れは上記の通りなのでそれ以外の出来事についてご紹介させていただきます。

 

萬福寺の布袋像、十八羅漢象


江戸時代初期に中国から日本に隠元さんという禅僧が渡ってきて、萬福寺を開き黄檗宗を広めました。

その萬福寺で中国人仏師の范道生が仏像を製作。ねちっこい執拗なまでの衣文表現や誇張された生々しい容貌が特徴な范道生の様式を黄檗様といいます。

萬福寺の布袋像

 

円空と木喰


江戸時代になると遊行しながら膨大な数の仏像を残した造仏聖として円空と木喰が登場します。

彼らは非常に多くの仏像を寺院の為ではなく庶民の為に彫った事で有名で微笑んでいる可愛らしい仏像が特徴的です。

後に民芸運動の父である柳宗悦らによって取り上げられ再評価されていく形となりました。

円空仏

円空仏

木喰仏_長岡市・寶生寺_如意輪観音菩薩

木喰仏

 

東大寺の大仏


東大寺の大仏は奈良時代に初代が作られた後、平家に焼かれてしまい、鎌倉時代に慶派によって2代目として復活しました。

しかし戦国時代、松永久秀と三好家らが東大寺周辺で市街戦を繰り広げた為、焼失。

その後、江戸時代になり公慶上人が気合で今の金額で10億円程寄付を集めて再興。3代目として現在に至る。

 

方広寺の大仏


初代は1595年に豊臣秀吉が京都の方広寺に日本最大の大仏を建立。19mで東大寺の14.7mよりも大きく江戸時代に大仏と言えば「京都の大仏」を指しました。

しかし残念ながら1596年に発生した地震により損壊。

その後、しばらく放置されていましたが豊臣秀吉がみっともないとブチ切れて解体。

大仏殿自体は残っていたのでその中で2代目を製造しようとすると出火して大仏殿も燃えて灰になり振り出しに戻ります。

その後、豊臣秀頼の命令で1612年に何とか2代目完成。

しかし1662年の地震再び損壊。

三代目は1667年に再興。七条仏師(慶派)は造立。

その後、1788年の京都の8割を焼いたと言われる天明の大火では奇跡的に難を逃れるが、1798年に落雷で焼失。

しばらく再興計画は頓挫していましたが、尾張の商人を中心とする有志グループが再興計画を立て、何とか1843年に四代目が完成。

しかしプロが製作に関わらず民間で作った為に、後の郷土史家にグロいとディスられる程の出来だったらしくあまり人気は無かった様子。

1973年に火事で焼失。

怖い物のたとえである「地震、雷、火事、親父」の災難を全て受けた大仏として「悲劇の大仏」と呼ばれる事もあるそうです。

親父は狸親父で有名な徳川家康の事で方広寺の鐘も文言に徳川家康がいちゃもんをつけて大阪冬の陣の原因となり、豊臣家が滅ぶ原因となった為。

 

明治時代以降 1868 –

明治時代になるとこれまで衰退の一途を辿っていた仏像業界にトドメの出来事が起こります。

それが廃仏毀釈です。

これは元々、長い日本の歴史の中で神仏習合の流れがあり仏教と神道は混ざり合って受け止められていたのですが、明治政府になって天皇を主体にやっていくという流れの中から神道と仏教をきっちり分けた方が良いよね~という神仏分離令というのを発表したんです。

しかしこれが完全にミスリードで誤解を招いて「仏教はいらないんじゃ~~~~」という動きにつながってしまい仏教芸術の破壊活動につながってしまったんです。

寺院もたまったもんじゃなく、商売あがったりな部分もあってかなりの仏像を含むお宝が安値で売りに出されたりしたそうです。

興福寺の五重塔なんかも破格で売りに出されていてしかも売れてしまったらしいんですよ。

しかも売れた理由が燃やす為の薪用か何かの為とかという恐ろしい理由だったそうです。

まぁ、これは結局うやむやになって現在残っている状態なんですがこんな感じでもはや仏像作るとかそういった状況ではなかったので仏師の廃業続出の状態になってしまったんですね。

しかし、日本美術荒廃の時期から次第に見直し時期に入っていきます。

日本政府は日本美術を輸出したかったんですね。外貨稼ぎたかったと。まぁ、当時は外国に不平等条約とか結ばれてましたしね。

その見直し運動の中心人物になったのがお雇い外国人としてアメリカから政治学とかを教えに来ていたアーネスト・フェノロサと助手をしていた岡倉天心。

ちなみにアーネスト・フェノロサは政治学を教えに来ていたのに授業で過激な政治的な事を言っちゃったかなにかで干されて拗ねて美術品買い漁るようになった所から日本美術にハマるようになっていったそうです。

そして当時教えていた学校の生徒にいたのが岡倉天心で英語も出来る岡倉天心を翻訳、通訳係としてアーネスト・フェノロサがこき使ったという所からのスタートのようです。

二人は国が有するお宝の保護をきちんと国が予算をかけて行うべきだという西洋の考え方を日本にも取り入れるべく、まずどこにどんなお宝があるのかをチェックする為に、京都や奈良のお寺を訪ね歩いてリストを作っていきます。

そんな中で発見されたのが飛鳥仏の所でご紹介した法隆寺の救世観音像です。

法隆寺の人は二人に相当抵抗したみたいですけどね。何百年も空けていない部屋に保管されている救世観音で空けたら罰が当たるとかなんとか言って。まぁ、二人はガン無視したみたいですけど。

こういった二人の動きが後の文化財保護法につながっていきます。

こうしたアーネスト・フェノロサをはじめとする西洋人の価値基準から今まで仏像は信仰の対象として見られていた物が彫刻という美術品として再評価される形となりました。

ここから仏師は彫刻家としての道を歩んでいく事となり、仏像は彫刻という大きな枠組みの中の一つのテーマとして扱われていく形となり現在に至ります。

 

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あなたと掛軸との懸け橋になりたい


掛軸は主人が来客に対して季節や行事などに応じて最も相応しいものを飾り、おもてなしをする為の道具です。ゲストは飾られている掛軸を見て主人のおもてなしの気持ちを察して心を動かす。決して直接的な言葉や趣向ではなく、日本人らしく静かにさりげなく相手に対しておもてなしのメッセージをおくり、心をかよわせる日本の伝統文化です。

その場に最もふさわしい芸術品を飾り、凛とした空間をつくりあげる事に美を見出す・・・この独特な文化は世界でも日本だけです。

日本人が誇るべき美意識が詰まった掛軸の文化をこれからも後世に伝えていきたいと我々は考えています。



代表取締役社長
野村 辰二

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会社概要

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商号
株式会社野村美術
代表取締役
野村辰二
本社
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1973年
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1992年
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  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
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