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南画の基礎~新南画 | 院体画、文人画、北宗画、南宗画 | 水墨画 | 日本美術
南画とは
『南画』は中国の南宗画が日本に入ってきてジャパナイズされて人気になった絵画ジャンル。
江戸時代中期ごろから知識人を中心に人気となりました。
一般的な説明は上記のような内容が多いのですがもう少し解像度を上げて解説したいと思います。
元々、中国には王朝に仕える宮廷画家がいました。(彼らが描いたのを『院体画』と言います)
日本で言うと『お抱え絵師』や『御用絵師』のような存在ですね。江戸幕府の狩野派や皇室の土佐派みたいな感じです。
彼らは写実や彩色に重きを置いて描く技術を大切にしました。まぁ、宮廷に仕えているので個性よりも伝統を重視したイメージですね。
奇抜な画風よりも型からはみ出さない置きにいった画風が好まれました。
これに対して文人がもっと精神性を重視して描いたのが『文人画』です。
『テクを重視していても教養や精神性が伴わない人が描いた物は芸術なのか?きちんと人格の優れた人が描いた絵画の方が芸術としても素晴らしいものではないのか?』といった考え方をするのが文人画ですね。
なので彼らは金や名誉のような俗世間の雑事を嫌い、自然の中で気高く仙人のように生きる事を理想としました。
ざっくり言うと上記のような二局構造なのですが、時代と共に二つの特性は厳密には分けれなくはなっていきます。
宮廷画家でも精神性が優れている人もいるでしょうし文人画家の中でも俗っぽい人が現れるのは想像に容易いですね。
時代と共にこのふたつの画家の定義も曖昧になっていきますが、飽くまで概念を理解する為にざっくりと定義づけしました。
時代が下ると『院体画』は『北宗画』、『文人画』は『南宗画』と呼ばれるようになりました。
これらが日本にも伝わります。北宗画は鎌倉〜室町時代頃に日本に伝わり、その後に雪舟や狩野派へと発展していきました。
南宗画は北宗画より遅れて伝わってきたのか、もしくは同時期に伝わったが先に人気が出たのが北宗画だったのかはわかりませんが、江戸時代になってから人気が出始めます。
しかし日本には中国のような文人もいないし、そもそも歴史や文化が違うので完全には南宗画を理解する事が出来なかった為、日本流に変換して理解する必要がありました。
こうして生まれたのが日本の『南画』です。
この南画は江戸時代中期以降、知識人や武士を中心に大人気となり一世を風靡しました。
しかし明治時代になり転機が訪れます。
明治時代: 南画の危機
明治時代になり西洋の文化が入ってくるようになると日本のそれまでの文化が軽んじられるような風潮が出てきました。
また、それまでは幕藩体制で雇われていた絵師達も明治政府になりパトロンがいなくなった為、生活の為に職を変えざるを得ない状況に追い込まれました。
さらに廃仏毀釈の運動が起こり、日本の仏教美術は大きなダメージを受けました。
こうした日本美術の危機的状況を打破しようと新しい日本の絵画のあり方を模索しようと立ち上がったのがアーネスト・フェノロサと岡倉天心でした。
このアーネスト・フェノロサが行った新しい日本の絵画のあり方を説く『美術真説』という有名な講演の中で、南画を大きく批判した事でここから南画の立場は一気に悪化しました。
特に東京のような都会ではその影響は大きく、影響の少ない田舎に引っ込む南画家もいるくらい事態は深刻だったようです。
しかし田舎の方では南画に対する人気は根強く、ある一定の需要があった為、しばらく南画の人気は低空飛行を続けました。
大正時代: 新南画
次に南画に転機が訪れたのは大正時代頃になってからです。
この頃になると中央画壇でも西洋画の受容の影響がひと段落し、それを踏まえた上でもう一歩進んだ新しい日本の絵画の姿を模索していました。
日本の古典作品を研究したりする動きが盛んになる中で、精神性を大切にした南画の存在への再評価が起こりました。
そしてこれまでの南画に新しい様々な描法や感覚を取りいれた新しい表現の南画である『新南画』と呼ばれる物が生まれました。
この『新南画』には明確な画風の定義があるわけではなく、旧態の南画とはどこか違った新しい要素を含んだ南画というざっくりとした定義の画風になります。
以上、南画の基礎知識と新南画までのざっくりとした歴史をご紹介させていただきました。