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国宝・燕子花図屏風 (尾形光琳) 特別展 @ 根津美術館 予習情報
- 場所: 根津美術館 (東京)
- 日時: 2023年4月15日(土)~5月14日(日)
- 公式HP: https://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/next.html
燕子花図屏風と言えば琳派第二の巨匠・尾形光琳の代表作であると共に、琳派をも代表する作品。
尾形光琳に関しては以前まとめてますのでこちらの動画をご参照ください。
この燕子花図屏風は年に一度だけ、燕子花が咲く頃に東京の根津美術館で公開されます。
2023年は4月15日(土)~5月14日(日)がその日時にあたり、今回は燕子花図屏風と共に、作者である尾形光琳が生きた時代 (1658-1716) に焦点を当て様々な作品を紹介する展覧会となっています。
今回はその展覧会の予習情報をまとめてご紹介いたします。
時代の流れ
尾形光琳の生きた時代をご紹介するにあたり、その時代の前後もご紹介した方がより理解が深まるのでご紹介させていただきます。
尾形光琳の前の時代は応仁の乱から見ていきましょう。
応仁の乱は京都を舞台に行われた室町幕府の跡継ぎ問題に端を発する有力守護大名大参戦の勢力争い内乱です。
これが1467~1477年と約11年間も続いた為、京都の大部分は荒廃してしまいました。
その京都を復興させたのが裕福な商工業者である「町衆」と呼ばれる人たちでした。
琳派の祖の一人である本阿弥光悦の家もこの町衆で、刀の鑑定などを生業としていました。
上層町衆であった事も関係してか本阿弥光悦は書道、漆芸、陶芸など幅広く芸術分野に長けたマルチアーティストでした。
そんな本阿弥光悦に見出されたのが同じく琳派の祖であり、本阿弥光悦の相棒と言ってよい絵師・俵屋宗達です。
この二人が豊かな装飾性を特徴としたデザインチックな画風の琳派をスタートさせました。
そして、この本阿弥光悦の姉が嫁いだのが尾形家であり、ご主人が尾形道柏。
この尾形道柏が開業した高級呉服屋が「雁金屋」で、この道柏のひ孫として生まれたのが今回の主役、尾形光琳でした。
この尾形光琳が生まれた「雁金屋」は豊臣家や徳川家などからオーダーを受けて発展してきました。
しかし、1678年に大の太客であった東福門院(徳川2代将軍の娘で天皇に嫁いだ超VIP)が亡くなってしまった為、雁金屋の経営は傾きます。
経営不振の打開策として取った手法が大名にお金を貸す「大名貸」という金融業だったのですが、残念ながら慣れない金融業の為、貸し倒れ連発により大失敗。傷口を広げるような状態になってしまいました。
こういった「大名貸」は雁金屋だけではなく当時の有力な商人の多くが行っていました。
これは都である京都で商売をする為には様々な権力者とのお付き合いが重要であった為であり、この古い慣習が原因で貸し倒れにあって潰れていくオールドタイプの商売人が増えてきたのもこの尾形光琳の生きた時代です。(残念ながら雁金屋はオールドタイプの方の商売人だったんですね。)
そんな古い慣習にとらわれて苦しんでいるオールドタイプの商売人を尻目に、勢力を拡大させてきたのが地方出身のニューカマーの商売人達。
斬新な商売手法と京都に根を下ろしていないニュータイプの商売人が力をつけてきて新旧交代していくのが尾形光琳の後の時代。
そんな商売人の代表格が越後屋の三井家であり、その庇護を受けて大活躍したのが円山応挙。
青物問屋の経営者という立場でありながら絵画の世界で活躍した伊藤若冲なども尾形光琳とタッチ交代で誕生します。
その他、奇想の絵師と呼ばれる長沢蘆雪や曾我蕭白、また南画の与謝蕪村や池大雅など非常に多くの絵師が活躍していく群雄割拠状態になっていくのが尾形光琳の後の京都の時代です。
異常が尾形光琳が生きた時代の前後を含む流れとなります。
尾形光琳の生涯
基本金持ちのボンボンだったのでぐうたら生活の放蕩息子。遊郭行きまくり豪遊しまくり散財しまくり。
しかし家業が傾くとさすがに遊んでばかりではいけないので40歳くらいから絵の道に入ります。
ちなみに私は絵の道に40歳で入ったこの時代の絵師は聞いた事がありません。皆さんだいたい10代や20代の頃には修行するなり独り立ちするなりして絵の世界に入っています。
40歳という絵師人生スタートで大丈夫なのか?という所なんですが腹立つことに大丈夫だったんです。
いきなり代表作であり現在国宝に指定されている今回の展覧会の主役・燕子花図屏風をこの頃に描いちゃいます。(天才過ぎるやろ!!)
しかも絵師の称号として3番目のランクである「法橋」というランクまで1701年にゲットしてしまいます。(腹立つ!!)
しかし金遣いが荒いのは相変わらずで万年金欠状態。
そんな中、有力パトロンであった中村内蔵助が江戸に転勤になった為、追っかけて江戸に行くという転機が訪れます。
江戸の地で姫路藩の酒井家で勤める尾形光琳のリーマン時代が1704年からスタートします。
慣れない江戸の地であり、しかもリーマンの身…尾形光琳には相当堪えたみたいですがここで狩野派の主流の画風や雪舟や雪村など室町時代の水墨画を学び画力を飛躍的にレベルアップさせます。
でもやっぱり我慢の限界が来て1709年に脱サラして京都に帰ります。
この帰京後の1711年に新居(アトリエ)をオープンさせ、画業の集大成期に入っていき、1716年に没します。
燕子花図屏風
今回の主役のこの燕子花図屏風がなぜ琳派を代表する作品なのかというと「これぞデザインチック」と呼べるからです。
12枚の金屏風に多くの燕子花が描かれていますが、実はこれ同じ形の燕子花グループをコピペして群生しているように見せているんです。
下の画像の赤丸部分を見比べていただけると同じ燕子花の形が使われているのがわかると思います。
これは着物の型紙という手法を用いた物で、呉服商で生まれ育った光琳ならではの斬新な感覚でこれぞデザインチックですね。
金と群青と緑のおよそ三色でモチーフも同じ形を用いながらも、それらを絶妙なバランスで配置するとここまでのアート作品になるというイノベーションを起こしたという点でこちらの作品は素晴らしいのです。
こちらの作品は遠目で見ると燕子花は群青一色でペタッと描かれているように見えますが実は結構な絵具の厚塗りで微妙に色合いを使い分けているという点も楽しみポイントになります。
その他の作品
狩野探幽「両帝図屏風」
狩野探幽 (1602-1674)は江戸時代に狩野派を完全なる勝ち組に導いた絵師。
徳川家康、秀忠に気に入られて江戸幕府の仕組みが出来上がるその時に絶妙に狩野派をその仕組みに入り込ませてオートマチックに狩野派が繁栄する仕組みを作り上げた人物。
尾形光琳が生まれた時は既に勝敗は決しており、狩野探幽が画壇のキングと言っても過言ではない状態でした。
そんなキングが描いた中国の伝説上の理想の帝王を描いた作品。
鮮やかな金彩とやまと絵の描法で描かれた細かい人物描写に注目。
喜多川相説「四季草花図屏風」
喜多川相説は尾形光琳と同時期を生きた絵師で琳派の祖である俵屋宗達の後継者と言われていますがほぼ何もわかっていない謎の絵師。
デザインチックでありながらも墨の上品な四季草花は琳派の新たな一面が伺える逸品で要チェックです。
伊勢参宮道中図屏風
江戸時代に人気になったお伊勢参りの様子を描いた作品。
作者は不明ですが細かい人物描写は当時の熱気を伝えてくれています。
洛中洛外図屏風を感じさせるような当時の人々の様子を是非お楽しみください。
大津絵貼交屏風
江戸時代はお伊勢参りに代表されるように街道整備が進んで旅行ブームとなりました。
そんな中、旅行客目当てのお土産品としての安価な絵画も生まれました。代表的な物が浮世絵ですね。
そんな感じで滋賀県の大津あたりで売られたのがこの「大津絵」。
土産品なのでクオリティは無視、スピード重視で生産された雑くて粗末なお土産品絵画。
当時は人気を誇っていたが明治時代になり近代化と共に減少していきました。
再び注目を集めたのは大正から昭和初期にかけて民衆の暮らしの中から生まれた美の世界を紹介する民芸運動を推進した柳宗悦。
現在では海外も含めて人気のジャンルとなりました。(当時の人達は「知らんがな」かもしれませんが)
力を抜いたある種、職人技のようなゆるキャラ絵画の世界を是非ご堪能下さい。
以上、燕子花の咲く時期に是非、国宝を楽しんでいただければと思います。
- 場所: 根津美術館 (東京)
- 日時: 2023年4月15日(土)~5月14日(日)
- 公式HP: https://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/next.html