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伊藤若冲 まとめ
目次
- 商人から画家へ
- 画業専念~動植綵絵
- 新たなる画境と環境変化
- 大ピンチ~晩年
- 没後
- 江戸時代
- 1872: 第一回京都博覧会
- 1885: 八十五回忌 相国寺 大遺墨展
- 1889: 動植綵絵、明治天皇へ献納・1万円下賜
- 1890: 信行寺天井画を木版印刷で複製「若冲画譜」(芸艸堂企画)
- 1895: 京都開催の第四回内国勧業博覧会に「動植綵絵」の内5幅が陳列
- 1904: セントルイス万博「若冲の間」
- 1926: 西福寺の仙人掌群鶏図発見、「動植綵絵」30点全てが東京帝室博物館で初展示、秋山光夫による本格的研究スタート
- 1927: 今の京博で動植綵絵と仙人掌群鶏図などの展覧会
- 1960年代: ジョー・プライス収集熱UP、辻惟雄・小林忠研究拡大
- 1970: 辻惟雄「奇想の系譜」出版
- 2000: 「没後200年 若冲」展@京博
- 2006: プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展@東博
- 2007: 動植綵絵と釈迦三尊像 @ 相国寺
- 2009: 動植綵絵@東博
- 2012: ワシントン展
- 2016: 「生誕300年記念 若冲展」@東京都美術館
- 2018: パリ展
- 2021: 動植綵絵 国宝指定
商人から画家へ
1716: 誕生
伊藤若冲、一世を風靡する画家、は1716年の初春に生を受けました。その時代は、江戸時代の中期に当たり、享保の改革が始まる重要な時期でした。全体的に財政再建の取り組みが行われていました。
若冲の生まれ故郷、京都の画壇では同じく変革が訪れていました。琳派の第二の巨匠・尾形光琳が夏にこの世を去り、画壇の世代交代が進んでいました。この時代の変革は商業の世界にも波及し、旧来の商人が衰退の一途をたどりつつ、新たな商人が台頭してきていました。
若冲が生まれた家庭は青物問屋「桝屋」で、一般的な八百屋とは異なり、市場の場所を商人に貸して使用料を取るという形式で運営されていました。この商売は京都の中心部、錦高倉の青物市場で行われ、当時としては相当な裕福さを誇っていました。
若冲自身は、幼少期から独特な個性を持つ子でした。学問には興味がなく、習い事も苦手で、女性や酒といった一般的な楽しみにも無関心でした。しかし、絵と仏教、特に禅宗に対する彼の興味は一貫していました。彼が絵を本格的に描き始めたのは10代半ば頃からで、これが後の絵画界における彼の圧倒的な影響力の源となりました。
その絵画への没頭ぶりから、伊藤若冲は現代では時折絵画のオタクといったイメージを持たれる事も多いようです。
1731年(16歳)、沈南蘋来日。
1735年: この頃、売茶翁、鴨川の水辺に茶店を開く。
1738: 父没
若冲画23歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐ4代目当主となります。
1745: 大典が相国寺慈雲庵の住持となる。
1747年頃、京を中心に鶴亭が南蘋派を広める。
伊藤若冲最初期の作品「雪中雄鶏図」「葡萄図」
細見美術館(京都)所蔵の「雪中雄鶏図」が「若冲」と名乗る前に使用されていた「景和」落款の数少ない作品。「景和」落款が使われていたのは若冲が30代の頃と考えられています。
特徴としては
・ウブな筆致
・後に見られる表現の萌芽→ボキボキの竹、ドロドロの雪
・紙本→後々の絹本の動植綵絵で使われた裏彩色やグレーの肌裏紙テクニックの前段階の状態
他の「景和」落款の作品は世界的な江戸絵画コレクターであるジョー・プライス氏の初めて購入したコレクションの「葡萄図」。
特徴としては
・虫食いの葉の表現
・寸止めの葡萄
1752頃: 大典、売茶翁と交流が始まる
大典は江戸時代中期に活躍した臨済宗相国寺派の禅僧。漢詩や書に優れた当代きっての文化人。特に漢詩の達人で当時の京都で最高の詩人と呼ばれました。
多くの文人墨客と交流を持った事で有名なお坊さん。
この大典さんの目に留まったのが同じ京都で絵を描いていた伊藤若冲で、以後、終生大典は若冲のメンターでありパトロンでありパートナーとして交流していきます。
大典は自身の資料に『余、吾子と交わること十有余年』と記しているので、逆算すると1750年(寛延三)前後、伊藤若冲三十代半ば頃に交流が始まったと考えられています。
大典は若冲より3つ程、年下で若冲と出会った時は相国寺の塔頭である慈雲庵の住職をしていました。(住職には1745年32歳の時になったが1760年に病気を理由に引退。)
若冲の家の宗旨は浄土宗だったのでどういった経緯でこの二人が出会ったのかについてはミステリーの部分です。
一説には京都の寺院は一年に所蔵作品を虫干しする機会を設け、その期間は一般公開していたらしく、その際に若冲も相国寺に拝観し模写をした流れから出会ったのではないかという推測もあるようです。
大典の略歴は以下の通り。
- 1719: 近江国で生まれる
11歳、相国寺慈雲庵にて得度 - 1745: 32歳、相国寺慈雲庵の住職
- 伊藤若冲と交流が始まる
- 1760: 病気を理由に郊外に引退→文人生活
- 1772: 53歳、慈雲庵に帰山
- 1779: 61歳、相国寺113世
- → 様々な幕府関連の仕事を歴任
- → 天明の大火(1788)後の相国寺再建に尽力
- 1801: 83歳、没
売茶翁は江戸時代中期に活躍した黄檗宗の禅僧。
佐賀県出身で佐賀県の龍津寺で修行を行っていましたが57歳で師が没したのを機に、弟弟子に寺を任せ京都に上洛。
61歳の時に通仙亭という茶屋をオープン。この通仙亭は簡単に言うと「禅僧のお悩み解決喫茶店」のようなもので煎茶を提供していました。
煎茶は茶道で使われる抹茶とは異なり茶葉を急須に入れて飲むスタイルのお茶。
売茶翁が通仙亭をオープンさせたのは江戸時代になり幕府からの寺請制度により安定したお布施が入るようになり緩んでしまった仏教界に対する反発や格式や形式を重んじる抹茶の茶道がマンネリ化しているように感じ、自由な精神性を大切にした煎茶道を通じて仏教を伝えようとした為と考えられています。
伊藤若冲と出会った経緯は不明ですが、通仙亭を通じて出会いや大典が関係しての出会いなどを想像すると楽しいですね。
売茶翁の略歴は以下の通り。
- 1675: 佐賀県で生まれる
- 11歳、出家。龍津寺で禅を学ぶ
- 13歳、師と共に萬福寺(京都)を訪れ大師匠に偈を貰う
- 色々修行
- 57歳、師没。弟弟子に寺を任せ京都に上洛
- 61歳、通仙亭オープン(禅僧のお悩み解決喫茶店)
- 伊藤若冲と交流が始まる
- 1755: 81歳、体力の限界にて閉店→書道家
- 1763: 87歳、没
「若冲」の名前
売茶翁が73歳の時(1747?)、京都の糺の森で友人と煎茶パーティーを行っていました。
そこで参加者の一人だった大典が売茶翁の茶器、注子(水差し)に「濁を去(あら)い清を抱き、其の灑落(しゃらく)を縦(ほしいまま)にす。大盈(たいえい)は冲しき(むなしき)が若し、君子の酌む(くむ)所」と記しました。意味として「非常に大きな器があるとする。その中に何も入っていないときは、役に立たない無用の長物と見える。しかし、そこに水か酒でも満たし始めると、底知れぬ大きさだと気付くだろう。」という内容。
この詩の元ネタは老子の書
「大成若欠 其用不敞 大盈若沖 其用不窮 大直如屈 大巧如拙 大弁如訥」
書き下し: 大成は欠けたるが若きも、其の用は敝きず。大盈は沖しきが若きも、其の用は窮まらず。 大直は屈するが如く、大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如し。
意味: 本当に完全な物は何かが欠けている様に見えて、その働きは衰える事が無い。本当に満ちている物は空っぽに見えて、その働きは枯れる事が無い。本当に真っ直ぐな物は曲がっている様に見えて、本当に巧妙な者は下手くそに見えて、本当に能弁な者は口下手に見える。
この煎茶パーティーに若冲が参加していたかどうかは不明ですが、「若冲」の号はこの詩から大典か売茶翁によって与えられたと考えられています。
おそらく大典や売茶翁的は
『若冲よ、お主はまだ何者でもないかもしれない、言わば空っぽの状態だが、だからこそその大きさは計り知れない。これから大化けするかもしれへん。物事ってそんなもんや。そこでや、お前が大成する事を願ってこの漢詩から「若冲」という文字を取って今後は号としたらどないや?』
的な感じで提案して若冲が気に入ったのではないのかな~。
若冲の絵画修行推移
伊藤若冲は絵の修行として最初は狩野派を学んだと言われています。誰に学んだかははっきりとはわからないそうです。
大岡春卜などの説もあるようですが確証はないようです。
しかしある一定のところで狩野派に見切りをつけてしまいます。
「狩野派の絵ばっかり習っていても所詮は狩野派の絵しか描けへんやないか!! 俺は狩野派を超えなあかんねや!! それやったら狩野派の元となった中国の宋とか元時代の絵画を模写した方がマシやわ!!」
当時の狩野派は江戸幕府に入り込んだ狩野派のレジェンド・狩野探幽の時期からだいぶ下り、粉本主義のマンネリ化が叫ばれており、狩野派の元となった宋元画を直接学んだ方が良いという風潮が背景にありました。(荻生徂徠『徂徠集』、徂徠門下の服部南郭と本多猗蘭との対話、柳沢淇園『ひとりね』『益一幹に復する書』など)
かくして若冲は宋元画の模写に勤しむことになります。
その数なんと1000点以上!!
まさに1000本ノック!!
しかしここでも若冲は気が付いてしまいます。
「模写は所詮模写で、いくらやっても中国の偉人画家には追い付かれへんのとちゃうか?オリジナリティがやっぱ大事やろ。しかも俺が模写しているのは中国の画家が目で見て頭で考えて絵にした物を写しているだけやから実際のモデルが中国人画家のフィルターを一回通ってもてるやん!! それやったら自分で直接モデル見て描いた方が自分のオリジナル描けんちゃうん!?」
かくして若冲は写生を試みようとしますが、モデル問題にぶつかります。
「何を描こう…まず人物画を描こうにも中国の描いてみたいような偉人は日本にはおらへんし日本人を描くのは絶対嫌や!尊敬でけへんし。ほな、風景か…、でもな~、日本の風景って中国の大自然とかと比べるとしょぼいしな~、なんか自分の国の小ささを感じてまうみたいで卑屈になって俺嫌やわ。ほんならやっぱり花鳥か~。花はまぁええとして鳥は何描こうかな~。やっぱ、孔雀とかきれいでえ~んちゃうかな~、王者って感じがするし。いや、でもな~。そんな簡単に孔雀なんて見られへんぞ。ずっと見ようと思ったら飼わんとあかんけどあいつらの世話するのワシやないか!?あんなでかい鳥の世話の大変さ見くびんなよ! 無理や無理や。ほんならもっと世話しやすくて飼いやすくて綺麗な鳥…よし、鶏にしたろか!」
ということで鶏を飼って描く事になったそうです。
この話は大典が記した若冲についての記録が元になっていますが、実際はその移り変わりにはグラデーションがあり、狩野派もやりながら模写もやりながら写生もやりながらというのが実際の所だと思いますが、おおまかな若冲の思考の流れはこのようになっていたようです。
宋元画模写実用例
伊藤若冲は宋元画の模写を1000点以上行ったと言われています。
確かに宋元画(実際には明時代の絵師の作品もある)を元に描いた作品が残されてるので見てみましょう。
まずさんざん使われたと見られる基準作となる宋元画が陳伯冲の「松上双鶴図」と文正の「鳴鶴図」です。
これを元に描いているのがまず若冲の「白鶴図」です。
文正の鶴のフォルムはそのままに背景を大胆に変化させているのがわかります。
左の鶴は陳伯冲の松を転用しています。いわば文正と陳伯冲の融合を自身の作品の中で行っています。
右の鶴の背景もいわばの向きや波の表現をかなり自分のものに変化させているのがわかります。
続いての例が2021年3月にNYのクリスティーズオークションで約1億6千万円で落札された「旭日双鶴図」です。
こちらも陳伯冲の作品のアレンジだとわかります。松の表現や日の出の位置を変化させているあたり色々探っている感がありますね。
次の例は若冲作品の中で制作年代がはっきりとわかる最も最初の作品です。(ただし現在は行方不明で資料写真のみ)
1752年、37歳の時の作品「松樹番鶏図」です。
陳伯冲の鶴を大胆に鶏に変化させた作品です。資料からなのではっきりとは言えませんが鶏の躍動感など随分と我々が知っている若冲の表現に近づいてきているのではないでしょうか?
「蕪に双鶏図」「鸚鵡図」「隠元豆・玉蜀黍図」「糸瓜群虫図」
「景和」落款以降、家督を弟に譲って画業を本格化させるまでの間の作品は「松樹番鶏図」以外は年代がはっきりしないのでざっくりと初期作群として紹介します。
まず近年、京都で発見されて話題となった福田美術館の「蕪に双鶏図」。
まだまだ鶏の表現がぎこちないという事でかなりの初期作として考えられるそうです。蕪と一緒に描かれている所が青物問屋を営んでいた若冲らしくて面白いですね。
次が和歌山県の草堂寺にある「鸚鵡図」と「隠元豆・玉蜀黍図」。
「鸚鵡図」は、後の動植綵絵にも登場する鸚鵡がこの頃から写生されていたのがわかりますね。
「隠元豆・玉蜀黍図」では静寂な墨の描写が新鮮ですね。水墨画にも研鑽の様子がうかがえます。
最後に「糸瓜群虫図」。こちらは京都の細見美術館に所蔵されている作品で若冲が家督を譲る直前の1753-54年あたりに描かれたと考えられています。
縦に長くデフォルメされた糸瓜や生命感溢れる蔓の描写が若冲らしいですね。
こちらには11匹の生物が隠し絵のように描かれているのも若冲の遊び心が感じられて面白いです。
若冲の作品では生き物が仲良く生き生きと描かれる世界感が表現されている事が多いですが、これは若冲が深く信仰した仏教の考え方で「草木国土悉皆成仏」という「草木や国土のように心をもたないものでさえ、ことごとく仏性があるから、成仏するということ。」という考え方が反映されているからとも言われています。
また、通常は綺麗な状態で描かれる事が多い植物の葉なども虫食いがあったり一部枯れている状態で描かれているのも若冲ワールド。
ひとつには若冲はボンボンであったので注文主の為に描いていたわけではなく自身の画道の追及の為に描いていた為である事。
もうひとつには仏教の考え方で「諸行無常」というものがあり、世の中の全ての物は移り変わっていく。生まれては老いていきやがて朽ち、また新たな生命が誕生していくという循環の中にあるので老いる事、朽ちる事は特に避ける物ではなくありのままを受け入れる事が大切という感覚からの描写ではないかと考えられています。
画業専念~動植綵絵
1755: 次弟に家督を譲る
家業の桝屋の当主をしながらなんとか画業に臨んでいた若冲でしたが、大きな転機が訪れます。
1755年に次弟の宗厳に家督を譲り隠居します。
若冲の無茶ぶり交代だったのか、兄に画家として大成して欲しいという弟の想いからなのかはわかりませんが晴れて若冲は画業に専念する事となりました。
1755: 「月梅図」
画業に専念出来るようになったのが嬉しかったのか、この1755年に若冲は大作を3点も描きます。
まず2月に現在メトロポリタン美術館に収蔵されている「月梅図」。
月と梅はよくセットで描かれる画題ですが通常は静かな情景として描かれます。
しかし若冲に至っては梅の乱舞感が半端ないくらいの表現で描かれています。
無数に細かく描かれた梅の花も若冲節が効いていますね。
この作品は若冲最高傑作として名高い動植綵絵にほぼまるまま転用されています。
この時期から動植綵絵に向けて実験を繰り返していたのか、この作品が気に入り過ぎて動植綵絵企画の際に使い回しをしたのかは不明ですが面白い事実ですね。
1755: 「虎図」
次に京都の正伝寺という寺院に伝わる中国画家の「猛虎図」を模写した作品を描きます。
指舐めの虎。元絵を忠実に写しながらも単なる模写に終わらせず
・虎の輪郭にうっすらと墨を入れて虎を浮かび上がらせている
・近景の叢削除
・土坡に角度をつける
などのアレンジを加えているのが若冲らしい。
また、この作品には「虎は日本にいないので、中国画を写すのだ」と断り書きを入れています。
当時、若冲は実際に物を見て描く写生という物を大切にしていたのですが、虎は日本に生息していなかったので仕方なしに中国画のこの虎の絵を写しましたというのを誰かに断っているのです。
誰に?
恐らく絵の神様かそのほかの大いなる何かにでしょう。こういった絵に関しては非常に実直でまじめだったのが伺える作品でもあります。
ちなみに若冲はこちらの作品を中国の画家である毛益の物だと思っていたようですが、お寺の言い伝えによると中国の画家である李公麟の作品のようです。しかし近年の研究では朝鮮の画ではないかという見方もある謎の多い作品です。
若冲はこの図を気に入ったのか後年墨絵で「竹虎図」としてアレンジして描いています。
1755: 「旭日鳳凰図」
次に若冲の掛軸サイズでは最大級の大きさとなる「旭日鳳凰図」(縦186cm x 横114.3cm)。
大迫力の色鮮やかな鳳凰が力強く描かれていますがこちらも後の動植綵絵の萌芽が感じられる作品です。
ちなみに言うとこの鳳凰の描き方は狩野探幽の「桐鳳凰図屏風」との類似点から狩野派からの影響を感じ取る事が出来ます。
孔雀鳳凰図
2016年、83年振りの大発見という事で報道され話題となった箱根にある岡田美術館の「孔雀鳳凰図」もこの時期の作品と考えられています。
この2点も動植綵絵に向けての準備のような作品。鳳凰図が先ほどの旭日鳳凰図と若干変化があるのが面白いですね。どちらが先に描かれた物なのでしょうか。
こちらは広島藩主が旧蔵していた作品の様です。
紫陽花双鶏図
続いてご紹介したいのがプライス・コレクションの「紫陽花双鶏図」。
こちらの作品もこの頃に描かれたと考えられていますが動植綵絵に同じタイトルで同じような構図の作品が存在します。(よく混同してしまう方がいるので要注意)
動植綵絵の方が紫陽花が全体的に描かれているのと青と白に分かれていますね。雌のポーズも異なっていたりとこの作品は結構ディティールを変化させたようですね。
1757頃: 「動植綵絵」開始
様々な実験を繰り返し、ついに伊藤若冲の最高傑作と言われる動植綵絵30点セットのシリーズ物の製作を42歳頃からスタートさせたと言われています。
始まりは伊藤若冲が東福寺にある張思恭という中国人画家が描いた釈迦三尊像(釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩)の作品を見た事がきっかけ。
若冲は大いに感銘を受け
「自分もこの作品を描きたい! しかもさらにこの仏さんを飾る為の森羅万象を描いた作品もあわせて描き尽くしたい! そしてそれを日頃お世話になって愛してやまない相国寺さんに納めたら相国寺さんを飾る道具として役立つんちゃうかな? 相国寺さんの格が上がる一助にでもなるんちゃうか? いや~、これはね、別に世間の評判を得たいとかいう承認欲求的なよこしまな気持ちやありまへんで。とにかく相国寺さんの為に! オールフォー・ユーの為にです! 嘘ちゃいます! その証拠に私は死んだら相国寺さんに収まろうと思てます。だから永代供養の契約も結ぼうと思てますし生前墓も建てようと思いますのでどうか信用したってください。」
みたいな気持ちで動植綵絵を描いたそうです。
これはある程度本当で若冲が実際に動植綵絵を相国寺に納める際に寄進状と呼ばれる目録的な物を一緒に納めていますが、その内容が以下です。
「私は常日頃絵画に心力を尽くし、常にすぐれた花木を描き、鳥や虫の形状を描き尽くそうと望んでいます。題材を多く集め、一家の技となすに至りました。また、かつて張思恭の描く釈迦文殊普賢像を見たところ巧妙無比なのに感心し、模倣したいと思いました。そしてついに三尊三幅を写し、動植綵絵二十四幅を作ったのです。世間の評判を得ようといった軽薄な志でしたことではありません。 すべて相国寺に喜捨し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと存じます。 私自身もなきがらをこの地に埋めたいと願い、謹んでいささかの費用を投じ、香火の縁を結びたいと思います。 ともにお納め下さいますよう伏して望みます」。
以下が張思恭の作品と若冲の作品です。
ここでも若冲は単なる模写ではなく輪郭線の強さであったりアレンジを加えてオリジナルな釈迦三尊像にしています。
また、描かれた時代が違うからというのもあるのでしょうが、それでも絵具の発色にこれほどまでの違いが出るのは使われている材料の質が大いに影響しているからではないかとも考えられます。(若冲はボンボンで高価な画材の使用には糸目をつけなかったから。)
動植綵絵30点に関しましては以前、全て解説した動画というのを製作しているのでそちらをご参照ください。
ただ、これまでご紹介してきた作品というのは全てこの動植綵絵につながっていると感じる部分があります。
元々動植綵絵を描こうと思ってその実験段階としてこれまでの作品を描いてきたのか、動植綵絵を描こうと思い立ってこれまでのお気に入りの作品をアレンジして描いたのかはわかりませんがいずれにしても動植綵絵はこれまでの若冲の延長線上にして最高点にまでレベルを高めた究極の作品群という事が出来ます。
1759: 鹿苑寺大書院障壁画
最高傑作である動植綵絵の製作に粉骨砕身で臨んでいる中、なんと若冲は他の大作にもチャレンジしています。
それが鹿苑寺(金閣寺)の障壁画50面の製作です。
当時はまだ無名に近かった絵師がなぜこれほどまでの大きな仕事を任される事になったのかはやはり大典の影響が強いです。
鹿苑寺というのは相国寺の塔頭寺院でありその影響が大きかったのと、新しく鹿苑寺の住職に就任した人物が大典の文学の弟子であったこともあり、鹿苑寺の障壁画の製作に若冲を大典がねじ込んだものと考えられています。
こちらの鹿苑寺の障壁画は水墨で描かれた異世界の作品です。
葡萄図はプライス・コレクションの「景和」落款の作品を思い出させますね。
芭蕉を好んで描いているのも興味深い所です。
動植綵絵の細かな鶏図とは違い、墨の鶏味わい深いですね。
そして竹のフォルムがとてもユニークです。「雪中雄鶏図」のボキボキの竹を進化させるとこうなるのか~というのが感じ取れて面白い所です。
こちらの作品は現在は保存の観点から相国寺が運営する承天閣美術館に収蔵展示されているので是非機会があったらご覧ください。
若冲の水墨画の傑作のひとつです。
1760: この頃、観梅会
伊藤若冲が他の絵師と交流したという数少ない記録の中に1760年頃の観梅会があります。
大典と若冲、そして文人画の大成者・池大雅らが一緒に梅を見て盛り上がったそうです。
どことなく交友関係が少なそうなイメージが先行する若冲ですが、よく考えたら大典も売茶翁とも交流してますし、家業を当主としてこなしていた事もありますし普通に人付き合いをしていたと考えて良さそうです。
ちなみに若冲が活躍していた18世紀の京都画壇は群雄割拠状態で多くの実力派絵師が存在していました。
円山軍団を率いた円山応挙、その弟子で奇想の絵師として有名な長沢芦雪、文人画系では池大雅や与謝蕪村、当初与謝蕪村から習った後、円山応挙にも影響を受けて後に四条派を生み出した松村呉春、謎多き問題作連発奇想の絵師・曾我蕭白などが存在しまくってました。
しかも!!!
これらの絵師が京都市街に密集して生活していたんです。1日で全絵師を訪ねる事が可能な位の距離感。
絶対に全員が意識し合って街中で見かけあいまくってたと考えたらこの時代の京都ワクワクしますよね。
そんな中、錦市場で一大マーケットを仕切っていたボンボン丸の伊藤若冲は全絵師からかなり変わったバカテクボンボン絵師として見られていたでしょうね(笑)
1760: 丹青活手妙通神
若冲と売茶翁がいつどういった経緯で知り合ったのかははっきりしませんが、1760年の冬には面識があったようで制作途中の動植綵絵を見た売茶翁が若冲に『丹青活手妙通神』の書が贈られました。
意味は簡単にいうと『あんたの絵は神ってるね』です。
当時の一級の文化人から見てもやはり動植綵絵の凄さは異常だったという事でしょうね。
1764: 金刀比羅宮奥書院
心血を注いで動植綵絵を製作している最中、鹿苑寺障壁画に続いて大仕事の傑作をやってのけたのが伊藤若冲。
1764年に香川県の金刀比羅宮の奥書院の障壁画を製作いたしました。
経緯はざっくりいうと金刀比羅宮の責任者が若い頃に京都で若冲に絵を習っていた事があり、自身が責任者になったのでその記念に師匠に障壁画を依頼したという流れのようです。
当初は4つの間に作品が描かれていたようですが長い年月の間で劣化が生じ、やむなく破棄されてしまい現在は上段の間のみが現存しています。
ただ、こちらの上段の間の作品『百花図』も傷みが進行している状態で長らく非公開となっておりましたが、2021年より修復がスタートし、2023年の4月に修復完了後のお披露目会が行われておりました。
こちらのお披露目会は実際に現地にレポに行き動画にまとめておりますのでこちらをどうぞ。
上段の間に描かれているのは合計201点の植物が規則正しく等間隔で描かれており、細部は写実的だが離れて見るとデザインチックという不思議な作品でした。また、背景が金地というのもこの百花図の艶やかさを引きたてていました。
傑作と呼べるこの作品を動植綵絵を描いている最中に製作するあたり、この時期の若冲の鬼才ぶりがうかがいしれます。
1765: 末弟・宗寂没
大活躍中の若冲だったのですがここで不幸が襲います。
末弟の宗寂が急逝してしまったのです。
若冲を画家への道として専念させてくれたのには次弟だけでなく恐らくこの末弟の協力もあっての事だったのでしょう。
若冲は大いに悲しみ、その菩提を弔う意味もあってか30巾セットで完成の動植綵絵の24巾と釈迦三尊像を先にここで相国寺に納めます。(寄進状と売茶翁の『丹青活手妙通神』の一行書も添えて)
若冲はその後、相国寺と永代供養の契約を結び生前墓も建てました。
若冲が途中で動植綵絵を納め、永代供養契約、生前墓建立までしたのにはこの宗寂の死がやはり影響していたと考えるのが妥当なような気がします。愛する弟の成仏を願っての相国寺(仏様)に対する嘆願の意味合いもあったのではないでしょうか?
1766: 秋頃、残り6点完成か?
6月に相国寺でこの納められた釈迦三尊像と動植綵絵24点の虫干し公開がされたと記録があり、恐らくその後の秋頃に残りの6点を納めたのではないかと考えられています。
若冲の最高傑作として名高い動植綵絵には実は末弟の死の悲しみを乗り越えて完成させたというドラマがあったのです。
新たなる画境と環境変化
1767: 淀川下り遠足
動植綵絵を完成させた後、若冲は大典と共に京都の伏見から大阪の天満橋まで川を下る遠足に出かけます。
この頃、大典は体調を理由に相国寺慈雲庵を引退して悠々自適の生活をしていたので、大業を終えた若冲と2人ののんびり骨休み遠足といった所でしょうか。
晴れた春の日のお昼前から伏見を出発し、夕方位に天満橋に到着した模様です。
しかし、そこは若冲。生粋のアーティストがそんな体験を作品にしない訳がない。
この経験を活かして制作されたのが『乗興舟』。
『興奮して乗った舟』ってどんだけ嬉しかってん(笑)
そしてこの頃、若冲がハマっていたのが版画なんです。
流石に動植綵絵のような極彩色細密描写を10年間もやってたらお腹いっぱいになって気が済んだんでしょうね。
しかし動植綵絵で若冲の才能が枯れる訳がないので新たにハマったのが版画なんです。
しかもこれが単なる浮世絵などで使われる木版画ではなく中国の拓本という技術を利用した『拓版画』と呼ばれる物でした。
拓本とは文字などが刻まれた石碑に紙を貼り付けていきます。凹んだ部分にも紙を挿入して密着させます。そして上から墨を含ませたタンポなどで軽く叩いていき写しとる技法です。
木版画とは異なり、字の部分が白く背景が黒くなるのと、反転しない事から正面摺とも呼ばれたりします。
この技術を利用したのが拓版画。若冲はタンポで叩いたのではなく筆で塗ったようですがモノトーンの異世界に仕上がっています。
こちらの作品は11mもある長編で伏見からスタートして色んな各地の地名などが記載されています。
現在国内外で13巻が確認されており、微妙に内容が異なる事から複数の異版が存在する事も確認されています。
ちなみにこの版木を掘ったのも若冲らしいです(なんでもありかよ)
この作品ではモノトーンの世界にグラデーションが用いられている所がより異世界感を強めていますが、この技法には友禅の技法が使われている可能性もあるのだとか。引き出しが多くある若冲ですね。
大典の詩句が入っているのも味わい深くて良いですね。2人の楽しい遠足の様子が伝わってくるようです。
1768: 「素絢帖」
同様の拓版画の技法で製作されたのが「素絢帖」。こちらも大典との共作になりますが『乗興舟』とは異なりこちらはグラデーションはなく白黒のパッキリとした世界観です。
1768: 「玄圃瑤華」
こちらも「素絢帖」と同様の白黒パッキリの世界観の拓版画。こちらは後年の江戸琳派の祖である酒井抱一の『絵手鑑』の中で彩色にアレンジされています。
酒井抱一は若冲の描いた縁起の悪い葉っぱの虫食いなどは修正して描いている所が面白いですね。
ただ、そんな酒井抱一も虫食いの穴を描かざるをえなかった作品が茄子。
穴の先に見える茎の表現により若冲は遠近感を表しているのでここだけは酒井抱一も取り入れざるを得なかったのが見て取れて面白い所です。
1771: 「花鳥版画」
版画作品の中で着色されたバージョンが『花鳥版画』なのですがこの作品は激ヤバ意味不明作品です。
どういうことかっていうと複雑に色々なテクをミックスさせたハイパー版画だからです。
背景の黒色は馬連の痕がある事から普通の木版画の技術を用いて刷られていますが、主題の輪郭線の白色は拓版画の技術で残しているという謎の併せ技。
しかも着色の部分はさらに『合羽摺』の技法を用いた合併せ技。
合羽摺は浮世絵の木版画のカラフル化の過程で使われていた技法で元々は友禅の技法らしいですが、水を弾く紙を切り抜いて特殊なブラシで穴の部分を着色していくという技法のようです。
木版画と比べて安価で出来た反面、細かい技法には向かなかったのとこれはこれで熟練した技が要求されたので後々は通常の木版画の技術が主流になりました。
この合羽摺の技法を使って筆で着色したのがこちらの作品。
さらに霧吹のような特殊な道具を用いた『吹きぼかし』という技法も併せて用いています。
何故こんなに複雑に色々な技法を併せて使ったのかについては『若冲ってそういう人だから』が一番すんなりいく回答かと思います。
しかしあまりにも複雑な製作方法な為、量産出来ず6点しか現存していないそうです。
あかんがな…
さすが、『やりすぎ若冲』ですね
水墨画アップデート
この時期より少し前、鹿苑寺の障壁画を取り組み出した頃より若冲は水墨画への取り組みを本格化させていきます。
やはり鹿苑寺の障壁画50面を水墨画で描ききった事と動植綵絵で極彩色細密描写はやり切った感があったのでしょうか。その作品量も時代を経るごとに増していき表現も熟達していきます。
特に若冲の水墨画は独立した図を貼る押絵貼屏風の形式が非常に多く存在します。(それだけ注文が多かったという事かな)
一番早い時期の物でいうと1759年位の物から晩年の1797年位の物まで。
その中でも特筆すべきテクニックが『筋目描き』という手法。
『筋目描き』は吸水性の高い和紙に淡い墨を隣同士に置くと水がぶつかりあい、墨が浸透しない部分の境界線に白い筋目が残る状態を生かした水墨描法です。
この技法自体は昔からあったのですが偶発性が高すぎて作品のクオリティが担保出来ない為、狩野派や土佐派では邪道とされてきましたが若冲は町絵師である上に裕福であったので注文主の為に絵を描くというスタイルではあまりなかったのでこの技法を好んで用いて探究しマスターしました。
同じ水墨の偶発的なテクニックで『たらし込み』というテクニックを同じ町絵師であった琳派の祖・俵屋宗達が得意としたのも類似性が見えて面白いですね。
この時期以降の若冲の水墨画作品も要チェックです。
1768: 平安人物志①
この時期から京都の人名辞典である平安人物志が発刊されます。
この平安人物志ですが人名辞典であると同時に芸術などの各分野の人気ランキングでもありました。
若冲が生きた期間には3回発刊されており、その第1回が1768年。
この年のランキングは以下の通り。
01. 大西酔月、02. 円山応挙、03. 伊藤若冲、04. 池大雅、05. 与謝蕪村
という事でめでたく第3位にランキング!!
スゴイね〜と言いたい所ですが恐らく若冲的に納得いってなかったでしょうね。まぁ、若冲に限らず芸術家は自分のイズムが一番という強烈なエゴを持ち合わせないとやっていけないような者ですから。
先ほどの乗興舟の拓版画も、数年前に円山応挙が淀川下りの作品を描いていたのに対抗しての作品として見る事も出来るのでこの時代のバチバチライバル関係がまた面白いですね。
ちなみにこれら絵師を抑えての堂々第一位の大西酔月に関しては詳細不明の謎の絵師です。松村呉春が最初に師事したというので相当なレベルではあったのでしょうが今後の研究に期待ですね。
1771: 市場トラブル
大業を終えて悠々自適の生活をしていた若冲に一大事が発生します。
若冲の家業の桝屋は錦市場にあり、この市場は四つの町の商人たちが商売を行っており、若冲はその一つの帯屋町の町年寄(責任者)でした。
1771年、錦市場は京都東町奉行所から呼出しを受け、市場の現状報告などの命令が下りました。
しかし、1772年1月に書類の不備が指摘され、錦市場の営業が停止されました。
この背景には、商売敵である五条問屋町市場の錦市場廃止を狙った作戦がありました。
五条問屋町市場は、多額の冥加金を奉行所に納め、関係者に賄賂を贈るなどして錦市場を割としっかりめに追い込みました。
営業停止後、五条問屋町市場の使いが若冲を抱き込もうとしましたが、若冲は他の町への不義理であるとしてこれを断りました。
その後、錦市場は冥加金を同様に納めて一旦営業を再開しました。しかし、五条問屋町市場が更に倍ほどの冥加金を納め、錦市場の営業を再度停止させました。まさに倍返しを食らってしまったのです。
若冲は途方に暮れている中、市場に野菜などを納める色々な村の庄屋や農家を味方につけ、錦市場の必要性を訴えさせました。錦市場が無くなると、農家は売り場を失い、結果的に年貢を払うことができなくなるという訴えでした。
また、若冲は事態が好転しない場合、最終手段として江戸の評定場に直談判する事も視野に入れ、町年寄を辞しヒラになりました。これは江戸の直談判がどういう結果になるか読めず万が一何かが起こった場合、市場に連帯責任がいかないように飽くまでヒラの立場での訴えとする為の若冲なりの配慮でした。この江戸直談判までいくと様々な所から恨みを持たれ下手をすると殺害される恐れなどもある命懸けのリーサル・ウェポンも選択肢に入れた上での真剣勝負でした。
若冲が各村を頻繁に訪れ、細かい調整や対策を行い、また市場の内部の意見調整も我慢強く行った結果、1774年8月に錦市場の営業は再開されました。
この期間中、若冲が絵を描くことはほとんどなく、その代わりに市場の問題解決に全力を注ぎました。これは、彼が実生活に適応できず、絵を描くことにしか興味がないというそれまでの若冲のイメージとは異なる、若冲の珍しい側面を示しています。(この市場トラブルのエピソードはわりと最近の別の研究から判明した)彼が絵を描くことから離れ、錦市場の商売に関与し、さらにはその存続のために尽力したという事実は、彼がただの芸術家ではなく、社会的な役割も果たし、粘り強く、リーダーシップも兼ね備えた熱き魂を持った人物だったことを示しています。
1773: 出家
市場トラブル真っ只中、若冲は黄檗宗の本山である萬福寺を訪ね、住職の伯珣照浩(はくじゅんしょうごう)(萬福寺20代住持)に初対面にも関わらず着ていた僧衣と道号を求めました。(ハート強過ぎ)
そして貰えました。(貰えたんかーい。伯珣照浩心広すぎやろ)
道号「革叟」(かくそう)で『絵画に革命を起こす男』の意味らしいです。うーん、格好良い。
市場関連の人間関係に疲れてハチ切れて出家したのかもしれませんね。
興味深いのが友人の大典の臨済宗ではなく売茶翁の黄檗宗の僧侶になった所。売茶翁はやはり憧れの対象として若冲にとっては別格だったのでしょうね。その証拠にほとんど人物画を描かない若冲が売茶翁だけは多く描いています。また、黄檗宗は当時の日本の仏教の中では江戸時代初期に伝わった最新のカルチャーというのも魅力的だったのかもしれませんね。
兎にも角にもこれで若冲は黄檗宗の僧侶となりました。
1775: 平安人物志②
第二回平安人物志ランキング発表。
1位: 円山応挙、2位: 伊藤若冲、3位: 池大雅、4位: 与謝蕪村、5位: 嶋田元直
という事で順位は一個上がったもののまたしても応挙に勝てず…市場トラブルで奔走してお休みしていたのが響いたのか…
ちなみに5位の嶋田元直は円山軍団の実力者です。
1776: 石峰寺の五百羅漢像
61歳のこの頃より若冲は新たな活動を始めます。
京都市伏見区にある黄檗宗の石峰寺の裏山に釈迦の一代記を再現した石仏群の建造をスタートします。
もちろん若冲が製作したのは限定的で多くはディレクションをしてプロに作ってもらったのですが数が凄い!
現在は400体程ですが当時は1000体以上あったとか。
何故この石仏での仏教ワールドを作ろうとしたかは一説には若冲に道号と僧衣をプレゼントした心の広い僧侶・伯珣照浩が1776年に亡くなったのでその菩提を弔う為だったのではないかと言われています。
後年、若冲が描いた石峰寺の作品ですが設計図のようにも見て取れるのが面白いですね。
1779: 母没
若冲が64歳の時、長年若冲や桝屋を見守ってくれていた母が没します。父親が亡くなってから40年も頑張って若冲や家業を支えてきたと考えると実は影の功労者なのかもしれません。
「果蔬涅槃図」はこの母の菩提を弔う為に描かれたのではないかともされている作品です。(他にも家業の発展の為説や1794-1800年説も有)
『果蔬涅槃図』は二股大根を中心に様々な野菜や果物が描かれている水墨画ですが、これは釈迦が入滅する際の様子を描いた仏画の定番テーマである『涅槃図』を自分事にアレンジして描いた若冲作品の中でも随一のユニークな作品です。
果蔬涅槃図の大きさは、縦181.7cm、横96.1cmと涅槃図らしくかなりの大型のサイズです。
死が付きまとう画題と家業の青物がミックスされている所からやはり私は母の成仏を願って描かれた作品ではないかと感じています。
1782: 平安人物志③
第三回人気ランキング!!結果は…
1位: 円山応挙、2位: 伊藤若冲、3位: 与謝蕪村、4位: 嶋田元直、5位: 望月玉蟾
今回も首位は変わらず円山応挙…さすが京都画壇のキングと言われただけの事はありますね。この時の応挙は一派を率いて大掛かりな仕事をこなすなど全盛期にあたり京都にその名を轟かせていました。
伊藤若冲的には一回も勝つ事が出来ない世間の評価に心穏やかではなかったでしょう。
以前、動植綵絵を描いていた際にこんな言葉を残しています。
『千載具眼の徒を竢つ』: 自分を理解してくれる人を千年待つ
この時の若冲の気持ちもやはりこんな気持ちだったのではないかと推察されます。
白象群獣図
次にご紹介したい作品はハッキリとした製作年代がわかっていません。50代後半から70歳代後半の作とされてます。(範囲広っ!)一応、印から70歳代前半頃とも言われているのでここでご紹介しておきます。
『白象群獣図』というユニークな作品。
『白象群獣図』は、『升目描き』という独自の技法で描かれた作品です。『升目描き』とは、画面全体に約1cm角の正方形を描き、そのひとつひとつを塗り分けていくことでタイル状の独特な立体感を出すという方法です。『白象群獣図』は約1万の方眼で描かれており、升目描き作品の中でも特に丁寧に描かれています。
『升目描き』の工程は以下のようになります²。
1. 画面全体に約1cm間隔の線を引き、方眼(正方形)を作成する。
2. 絵柄に合わせて淡い色を薄く塗り下地を作る。
3. 方眼(正方形)一つ一つを濃い目の色で塗り込む。
4. その正方形の隅により濃い色を付けて方眼一つがが完成する。
5. その方眼(正方形)に必要に応じて色付け、陰影を付け調整していく。
このようにして、若冲は白象や熊などの動物や植物を精密に表現しました。升目描きは若冲が晩年に開発した技法と考えられており、他にも『樹花鳥獣図屏風』や『鳥獣花木図屏風』などの作品がありますが、これらは下絵は若冲が手掛けたものの彩色は弟子たちが行ったのではないかなど現在も議論中です。
『白象群獣図』は若冲自身が彩色した唯一の升目描き作品と言われています。
何故こんな恐ろしく手の込んだ技法を開発して描いたのか?
答えはシンプル
『若冲ってそういう人やから…』
晩年になってもその製作意欲に陰りは見えない恐ろしい絵師です。
大ピンチ~晩年
1788: 天明の大火
今までも色々なことを乗り越えてきた若冲ですが、晩年に絶体絶命のピンチが訪れます。
それが京都史上最大規模の火災である天明の大火です。
なんと京都市街の8割以上が焼ける大惨事となりました。
当然若冲の家もアトリエも描き溜めた作品も燃えてしまいました。
相国寺の動植綵絵はどうなったかというと、この時、住職をしていた大典は留守だったのですが若冲の弟子でもあった維明周奎(後の相国寺住職)が迅速な指示でなんとか難を逃れたそうです。
かくして70歳を超えて焼け出されてしまった若冲は大阪の知人を頼る事にしました。
大阪の大文化人として名高い木村蒹葭堂と知り合いだった事もあり、若冲は多くの方から支援を受け絵を描く事になりました。
1789頃: 「仙人掌群鶏図襖」「蓮池図」
大阪での若冲の作品の代表作が豊中の西福寺の襖に描いた「仙人掌群鶏図襖」と「蓮池図」です。
本来は襖の表裏で描かれた作品ですが現在は「蓮地図」は掛軸に仕立替られています。
若冲の支援者の一人であり、薬問屋を営む吉野五運が西福寺の有力な檀家であった為、若冲を支援する目的で吉野五運が若冲に西福寺の襖絵製作の依頼をしたのではないかと考えられています。
吉野五運は変わった物を集めるのが趣味のコレクターだったようで恐らく仙人掌もその収集物の一つ。それを作品の中に若冲がモチーフとして描いたと考えられています。
金地に描かれた鶏は大きさもあり、動植綵絵を感じさせる細かな筆致でかなり迫力の作品でした。
色鮮やかな絵具から良い材料が使われたのではないかと推測されます。
裏側の水墨の蓮地図は静寂さを感じさせますが、蓮は泥の中でも美しい花を咲かせる仏教の象徴とされる花で、天明の大火で荒廃した京都の復興を願って描かれたのかなぁなどと感じます。
「仙人掌群鶏図襖」は年に1回、11月3日(文化の火)が晴れていたら虫干しで公開されますので是非機会があれば見に行ってください。
2022年に私は見に行ってレポをまとめていますのでよろしければこちらの動画をどうぞ。
1789: 「鶏頭蟷螂図」
災難にあっても負けない気概を持った若冲は様々なユニーク作品を残しています。
1789年に描いた「鶏頭蟷螂図」は躍動感あふれる鶏頭の茎が印象的な作品。燃え盛る炎のような花で威風堂々とポーズを決める蟷螂が天明の大火に負けない若冲を象徴しているかの様です。
1789-1790: 「石灯籠図屏風」
伊藤若冲の晩年の問題作として名高いのがこちらの「石灯籠図屏風」。
何が問題なのかと言うと未だかつて使われていなかった新しいテクをここにきて登場させているからです。
そのテクこそ「点描」です。文字通り点々を打っていく描き方ですが、若冲はこちらの点描で灯籠のザラザラのテクスチャを表現しているのです。
実際には点々に見えるわけではないですが見事にその石の質感を点々で表現している所に若冲の当て勘の良さを感じます。
ちなみに「点描」は19世紀のジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」で非常に有名になったテクニックですね。
最もスーラは「視覚混合」と「補色対比」を起こす為の点描で若冲のそれとは違いますが、表現自体はスーラより100年も前の日本人画家・若冲が既に行っていたというのが驚きですね。
1790頃: 海宝寺「群鶏図」障壁画
大阪豊中の西福寺に続く大きな仕事が京都伏見にある海宝寺の襖絵製作です。
海宝寺は黄檗宗の寺院なので黄檗宗の僧でもある若冲と何か関わりがあったんでしょうね。
襖には水墨で鶏が描かれており、晩年の水墨画の基準作とされています。
残念ながら何面かは失われてしまった部分があるようですが現在は京都国立博物館で保管されています。
1790: 「菜蟲譜」
長さ約11mの巻物で60種類近くの虫と野菜や果物が100種類近く描かれた若冲唯一の絹本著色の巻物。
動植綵絵の『池辺群虫図』を彷彿とさせる生命感あふれる世界に野菜や果物が混在する若冲ならではの不思議な作品。
1790: 「象図」
真正面ズドーンの迫力の象図。拓版画のようなモノトーンの世界観を肉筆にも転用した作品。
背中を3本ラインで表現するなど大胆なデフォルメか非常に印象的。養源院の俵屋宗達の白象図に負けないくらいのデザインチック感です。
日本に象は生息していませんでしたが海外から来る事がちょいちょいありました。
徳川吉宗政権の時にも海外から象が入ってきました。
長崎に到着して途中、天皇に見せる為に京都へより江戸に到着したのですが京都での際にもしかしたら若冲は生の象を見たのかもしれませんね。
大病を患う
晩年になっても挑戦をやめないクレイジーペインターの若冲ですがさすがに年には勝てません。
気がつけば75歳。
現代に於いても長寿とされる年齢になり、この頃大病を患ったそうです。
1791: 永代供養契約解除
若冲が動植綵絵を納める際に相国寺と結んでいた永代供養契約をこの年に解除しました。
元々の契約は「若冲の没後に屋敷一か所を高倉通四条上ル問屋町の町内へ譲渡し、その代わり町内は毎年若冲の忌日に青銅三貫文を供養料として相国寺の常住へ納める」という内容。
詳しい解除の理由は不明ですが、天明の大火で屋敷も市場も一度全てが灰となり、再建されるにしてもそれまでと同じような状況ではいかず契約を解除せざるを得なかった理由があったのでしょう。天明の大火の影響はこんな所からも感じる事が出来ます。
1791: この頃、石峰寺に隠居
生活の困窮からか、それとも精神的な理由からか、若冲はこの時期に五百羅漢象を製作していた石峰寺に隠居します。
1792: 次弟・宗巌没
若冲の次弟の宗巌が73歳で亡くなりました。弟の方が先に亡くなってしまいましたが73歳は当時でいうと長寿でした。
自分も大病を患い、弟も先に亡くなり、自分もいつ生命に終わりが来てもおかしくないという中、若冲は自分の画業に悔いを残さぬよう心に誓ったのではないでしょうか。
1794: 蔬菜図押絵貼屏風
晩年の若冲の代表作でご紹介したいのが『蔬菜図押絵貼屏風』。こちらは様々な製作年代説があり、1796とも1798とも言われるので正確な所は分かりかねますが大体晩年のこの時期の製作です。
屏風に超巨大な野菜やキノコが描かれるという他に類を見ないまさに若冲ならではの作品です。
描かれた経緯は若冲が隠居していた石峰寺に観音堂という建物を建築しようという計画が立ち上がり、そこに多額の寄付をした武内新蔵さんに向けて長年温めに温めておいたアイデアを作品に描き上げプレゼントしたそうです。
新蔵さんも大変喜んだそうですが、なんせ多忙だった為、まくりのままで表装出来ず、孫に託したそうですが、孫も謎にそのままキープ。表装されずに秘蔵されていたらしいです。
いつ表装されたのかというと時は流れるに流れて明治19年、新蔵50回忌の際にやっと孫が屏風に表装してお披露目したそうです。
1795: 円山応挙 没
京都画壇のキングとして円山軍団を率いていた巨星・円山応挙が寿命の為に亡くなります。
享年63歳という事で若冲よりも年下ですが若冲よりも先に没したという事でいかに若冲が長寿だったかがよくわかります。
世間の評価で言うと一度たりとも若冲が勝つことが出来なかった円山応挙の死を若冲はどう捉えていたのでしょう。
自分の死期が近い事を感じながらも最後まで己の画道を全うしたいと改めて強く思ったのではないでしょうか。
1797: 「象と鯨図屏風」
そんな若冲の晩年の大作が「象と鯨図屏風」。こちらは2008年に北陸の旧家に伝わっていた物が見つかり話題を呼んだ作品です。
水墨で描かれた巨大な鯨と白象・・・まるで海の王者と陸の王者が対面して挨拶を交わしているような様子が描かれている作品。
奇抜、奇抜と言われた若冲ですが晩年でもそのロック魂を忘れる事なく飽くなき挑戦心で挑んだのが伝わってくるようです。
左隻の波は屏風の折山の効果で実際はより躍動感が増して見えるそうです。
こちらの屏風には紙継ぎがない一枚物の紙が使われているようで、当時は入手困難でかなり高価な材料であったことから晩年まで作品づくりには金銭の妥協はないこだわり感が伝わってきます。
そして驚くべきことにこちらの作品には実は兄弟作が存在していたのです。
1928年(昭和3年)に行われたオークションの目録写真に本作品にそっくりな作品が掲載されていたのです。
本作品の2年前に描かれた作品で細部は所々異なりますが、この作品を土台にして1797年バージョンを再度描いたと考えると若冲の作品に対する執念のような物を感じますね。
1799: 「百犬図」
動植綵絵で無数の鶏を一堂に描いた「群鶏図」を彷彿とさせる「百犬図」、こちらも晩年の若冲の代表作になります。
当時は「多い」という表現に「百」という数字を用いて表現していましたので実際には59匹の犬ですが、それぞれに表情や仕草が異なり心温まる作品です。
犬の毛並みからも晩年になっても衰えない画力を感じる事が出来ます。
犬を得意とした絵師として終生のライバル・円山応挙がいますが、自分よりも先に没してしまったライバルの事を想いながら本作品を描いたのかもしれませんね。
1800: 石峰寺観音堂「格天井花卉図」
いよいよ、若冲最後の大仕事となりました。
それが先ほどの「蔬菜押絵貼屏風」で出てきた石峰寺の観音堂の天井画です。
格天井という格子状になった天井のひとつひとつのスペース用に植物を描くという大仕事です。
描かれた植物の数はおよそ200…日本の植物のみならず世界中の植物が描かれていました。
若冲はその植物を実際に取り寄せたのか、図鑑などの資料から描いたのかはわかりませんし、一人で描いたのか弟子を動員しての製作かもわかりませんが森羅万象を表現して描いた動植綵絵に通じる百花繚乱の世界を格天井に表現しました。
こちらの天井画ですが現在は散逸しており、京都の信行寺に168面、滋賀県大津の義仲寺の翁堂に15面が残されています。観音堂自身も明治時代に取り壊しとなってしまい現在は存在していません。(天井画の散逸自体は取り壊しの前に行われていたそうです。)
現存している天井画は劣化が進み、元の状態がどのような物であったのかは作品からはわからないのですが、明治時代に芸艸堂という京都の美術出版会社がまだ綺麗な状態だった天井画を木版画にして出版した「若冲画譜」から当時の作品の様子を知る事が出来ます。
こちらの「若冲画譜」は現代版で出版もされているので宜しければご参考にどうぞ。
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1800: 10/27 没
最後の大仕事を終え、波乱万丈のクレイジーペインターとしての生涯を終え若冲は安らかに眠りにつきます。
最後の最後まで奇想の絵師らしく我々の常識をぶち破るような作品であっと驚かせてくれた若冲。
『千載具眼の徒を竢つ』という言葉を残した若冲は没後どうなっていったのかを次から見ていきましょう。
没後
江戸時代
- 1800: 石峰寺に土葬
- 四十九日: 鹿苑院で法要
- 1812: 十三回忌、相国寺(以下同)
- 1816: 十七回忌
- 1824: 二十五回忌
- 1833: 三十三回忌
- 1849: 五十回忌
江戸時代の間は相国寺で順々にきちんと法要が行われていたようです。永代供養の契約は解除されていましたが、相国寺にとっても若冲はそれだけ大切な偉人として扱われていたのでしょうね。
1872: 第一回京都博覧会
会場のひとつであった西本願寺に相国寺の「動植綵絵」30幅が展示されて大盛況だったようです。この時期でもまだ動植綵絵の存在は特別視されていたものだったのがよくわかります。
ちなみに「某西洋人が買おうとしたが寺主に断られた」と記録に残っているらしく、恐らくアーネスト・フォノロサとウィリアム・ビゲローではないかと考えられています。
1885: 八十五回忌 相国寺 大遺墨展
釈迦三尊像、動植綵絵30点、関係者蔵の作品72点が方丈に展示され、相国寺の宝物も展示され、茶席もありの大規模な遺墨展が開催されました。
1889: 動植綵絵、明治天皇へ献納・1万円下賜
明治時代に起こった廃仏毀釈の影響で多くの寺院は困窮を極めました。
それは相国寺のような大寺院であっても同様で想像を絶するような状態が当時は仏教界に吹き荒れていました。
そんな中、相国寺は寺の敷地すら売らずにはやっていけないような状態に追い込まれていました。
窮地を救ったのはなんとあの若冲の動植綵絵。動植綵絵を明治天皇に献納する事で1万円を下賜されそのお金でなんとか寺社の敷地を取り戻すことが出来ました。(釈迦三尊像は献納せず相国寺の保管のまま)
まさに相国寺の窮地を救ったのは他ならぬ若冲だったわけです。
1890: 信行寺天井画を木版印刷で複製「若冲画譜」(芸艸堂企画)
これが先ほど若冲の最晩年の大作として紹介した石峰寺観音堂の天井画の複製企画です。
明治時代になると海外に日本のアートや工芸品を輸出したいというムーブがある中、そのデザイン(意匠)が大量に必要になりました。
デザインと言えば琳派がありますがそれ以外にも使える物はとにかく図案として活用したいという中で若冲の天井画もノミネートされそれをデザイン集として製作販売したのが芸艸堂でした。
明治時代になっても若冲の作品は忘れられてはいなかったんですね。
1895: 京都開催の第四回内国勧業博覧会に「動植綵絵」の内5幅が陳列
これまでは東京開催だった内国勧業博覧会が京都で行われるという事で御物である「動植綵絵」の5点が陳列されました。
1904: セントルイス万博「若冲の間」
日露戦争中にアメリカで行われていたセントルイス万博に日本は出展します。
ロシアは出展を見合わせている中、こういう時こそ日本PRやという事で岡倉天心が外交活動も含めてがんばった万博ですね。
金閣寺のような建物を日本ブース内に造ったという謎の気合入れようの万博。
そこで日本郵船が出展した休憩室「若冲の間」を飾るため、川島織物が若冲の「動植綵絵」15図綴織で製作して出品したそうです。若冲絵画を近代日本に評価するべき代表絵画として認識していたと言えますね。金賞も受賞したそうで何よりですね。
ちなみにこの若冲の間は解体して持ち帰るには費用がかかりすぎたため、そのままニューヨーク商工会議所に無償譲渡されましたが、輸送中の船舶火災で焼失してしまったそうです。
1926: 西福寺の仙人掌群鶏図発見、「動植綵絵」30点全てが東京帝室博物館で初展示、秋山光夫による本格的研究スタート
1926年に色々動きがありました。
日本画家であり若冲の熱烈なファンであった石崎光瑤によって大阪豊中市の西福寺にある当時は忘れられてしまっていた若冲の代表作「仙人掌群鶏図襖」を発見し世に伝えました。
そんな中、初めて東京帝室博物館(今の東博)で動植綵絵30点が全て初展示され話題を呼びました。
こういった流れを受け、日本美術研究家の秋山光夫氏が本格的に若冲研究をスタートさせました。
1927: 今の京博で動植綵絵と仙人掌群鶏図などの展覧会
再発見された「仙人掌群鶏図襖」がお披露目された展覧会ですね。
1960年代: ジョー・プライス収集熱UP、辻惟雄・小林忠研究拡大
今日の若冲の人気の火付け役となった3人の活動が本格化するのが1960年代。この三人の努力があってこその今の若冲の人気ですね。
1970: 辻惟雄「奇想の系譜」出版
若冲を語る上では外すことが出来ない伝説の名著。ここに奇想の絵師として取り上げられた事により一気に名前が知れ渡りました。
2000: 「没後200年 若冲」展@京博
2006: プライスコレクション「若冲と江戸絵画」展@東博
2007: 動植綵絵と釈迦三尊像 @ 相国寺
2009: 動植綵絵@東博
2000年代は若冲展のラッシュです。
東博、京博と日本を代表する博物館に相国寺もあわさって一気に若冲ブームが出来上がります。
2012: ワシントン展
ついに動植綵絵30巾と釈迦三尊像が海外進出した歴史的展覧会。
会期中には23万人の来場者があったそうです。
2016: 「生誕300年記念 若冲展」@東京都美術館
若冲の伝説的となった展覧会。2000年から続く若冲ブームが一気にピークとなった展覧会で話題沸騰となりました。
東京で初めて動植綵絵30点と釈迦三尊像が揃って見れるという事で会場の待ち時間はなんと5時間20分待ちとなり大変な話題となりました。
2018: パリ展
海外遠征第二段という事でアメリカに続いて芸術の都・パリで行われた動植綵絵と釈迦三尊像の展覧会。
こちらも大人気を博しフランスでの若冲の注目度が確認できた展覧会でした。
2021: 動植綵絵 国宝指定
近年の若冲人気も踏まえてついに動植綵絵30点が2021年に全て国宝に指定されました。
1889年以降、釈迦三尊像と動植綵絵が一堂に揃った展覧会は国内外合わせて4回のみ(2007、2012、2016、2018)なので今後、国宝指定を記念しての展覧会が行われる可能性も高いかもしれません。