ニュース/ブログ
棟方志功の生涯
目次
- 1903: 青森県に鍛冶屋の三男として誕生
- 1915: オモダカ開眼
- 1921: ゴッホ開眼
- 1924:上京→4年連続、帝展油絵落選
- 1926: 川上澄生の版画に衝撃
- 1928: 各展受賞
- 1936: 国画展に「大和し美し」出品
- 1938: 「善知鳥版画巻」が新文展で初特選
- 1938: 「観音経曼荼羅」で裏彩色
- 1939: 「二菩薩釈迦十大弟子」発表
- 1944: 富山県・光徳寺に「華厳松」揮毫
- 1945: 4月、富山疎開 5月、空襲
- 1946: 富山に自宅新築「鯉雨画斎」
- 1951: 疎開から帰還
- 1955: サンパウロ・ビエンナーレ 1956: ヴェネツィア・ビエンナーレ
- 1957: 日展審査員
- 1959: 初渡米 夏、渡欧
- 1970: 大阪万博「大世界の柵ー乾」出品
- 1970: 文化勲章→文化功労者
- 1974: 渡米中に倒れ、帰国後入院
- 1975: 肝臓癌で死去、棟方志功記念館開館
1903: 青森県に鍛冶屋の三男として誕生
15人兄弟(九男六女)の三男(第六子)として生まれる。豪雪地方出身の影響で囲炉裏の煤で目を病み、以来極度の近視となる。小学校卒業後、裁判所の給仕として働き始めるまでは裸眼で過ごしていたようで、知人から眼鏡を譲られたときには世界の明るさに驚いたという。
幼少期から絵に興味を持つ。
1915: オモダカ開眼
小学校の校舎裏に不時着した飛行機を見に走る中、田圃に落ち、目の前に揺れる沢潟の美しさに感動し「こういう物を表現する人間になろう」と決意を固める。
数年間、写生に明け暮れる。
1921: ゴッホ開眼
油絵仲間から雑誌「白樺」に載ったゴッホの「向日葵」を見せられて衝撃を受け、「わだばゴッホになる」と叫び、油絵画家を志す。ちなみにこの時、棟方はゴッホを人物とは認識しておらず油描きだと勘違いしていたという。
1924:上京→4年連続、帝展油絵落選
「いざ、お江戸へ!」という事で21歳の時に上京するが、当時、日本で最も権威のある展覧会である帝展に残念ながら4年連続落選。次第に「西洋の模倣では上手くいかない」と感じるようになる。
1926: 川上澄生の版画に衝撃
国画創作協会の展覧会で観た川上澄生の版画『初夏の風』(はつなつのかぜ)に感動。
自分が敬愛するゴッホに影響を与えたのも木版画(浮世絵)であり、木版画は日本で花開いた文化なので、棟方は版画家になることを心に決める。
1928: 各展受賞
日本創作版画協会展、春陽会展に版画で入選。第9回帝展で「雑園」(油彩)が初入選。
1936: 国画展に「大和し美し」出品
詩人・佐藤一英の詩「大和し美し」にインスピレーションを受け、詩を一面に彫り込んだ二十図の版画を絵巻の形に構成したもので、横幅2m近い額が四点になった。
国画会展に出品しようと棟方が持ち込むと展示会場の係の人が「デカいから1点だけ展示して残りは持って帰りなさい」に棟方志功ブチギレ!!
揉めてる所を通りかかったのが日本の民芸運動の父であり、国画会の審査員でもある思想家・柳宗悦と陶芸家の浜田庄司。
両人は全作の展示を認めたばかりではなく、当時建設中で半年後に開館する日本民藝館に買い上げる事も即決。これが棟方志功と柳宗悦の最初の出会いであった。以後、二人は相互作用しながら昭和の時代を駆け抜けていく関係となる。
「民藝運動」は民衆的工芸品の美を称揚する為の運動。名のある芸術家が作り上げたアート以外にも職人の手作りで作られたアーティスト名のない優れた工芸品にも美は存在する。その美の存在を広めようとした運動が民芸運動。(例: 大津絵、朝鮮民画、南部鉄器など)
1938: 「善知鳥版画巻」が新文展で初特選
官展で版画が評価される。
1938: 「観音経曼荼羅」で裏彩色
柳の助言により「裏彩色」という技術がこの時期よりスタート。「裏彩色」は本来は絹本の裏側から彩色を行い、表面に色彩効果を与える日本画の伝統的な手法。紙本では発色の少なさからかあまり用いられないが棟方志功はこの「裏彩色」を自身の作品に取り入れようと試行錯誤する。
版画の和紙は通常の和紙とは異なり、摺の圧にも耐えられる強さが必要だが、棟方志功の場合は裏彩色をした際に発色が際立つ薄さも必要という条件が加わる。
出雲の紙漉、安部榮四郎(人間国宝)の協力によって特殊和紙が完成し、裏彩色を用いた初めての作品「観音経曼荼羅」が完成。
1939: 「二菩薩釈迦十大弟子」発表
棟方志功の代表作。東博で見た興福寺の十大弟子にインスピレーションを受けて一気呵成に約1週間で彫り上げた作品。六曲一双の屏風作品にする為に、両側に文殊菩薩と普賢菩薩を加えた為、「二菩薩釈迦十大弟子」になった。仏に近づこうと苦悩・葛藤している弟子達の姿を力強く生命力にあふれた姿で表現している。
彫り上げたのは約1週間だが、構想や練習を約1年半もかけて揉んだという力作。
1944: 富山県・光徳寺に「華厳松」揮毫
棟方志功は民藝運動の関わりあいの中で、富山県の光徳寺の住職と知り合い、光徳寺に代表作である「華厳松」の襖絵を描いた。
この棟方志功独自の水墨画の描き方を「躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)」と彼は名付けた。この描法の意味するのを正確に理解するのは色々な説明を読んでも眠たくなり理解出来なかったし棟方志功しか読んでいない描法なので「棟方流爆発的水墨画描法」と理解しておけば多分問題ないと思う。
1945: 4月、富山疎開 5月、空襲
4月にかねてより親交のあった富山県の光徳寺に身を寄せる。何故、生まれ故郷の青森に疎開しなかったのかについては大成するまでおめおめと帰る事は出来ないと考えていたからかもしれない。
翌月の5月に東京大空襲があり、棟方志功の自宅や版木、作品など全て燃える。
1946: 富山に自宅新築「鯉雨画斎」
終戦後、富山に自宅を新築し、アトリエを「鯉雨画斎」と名付け製作を続ける。富山では浄土真宗の影響もあり、創作意欲が刺激されたようで鯉雨画斎の板戸やトイレの壁にまで棟方志功が描いた作品が残っている。
また、この頃、全英書道家の大澤雅休と交流し、書道にも本格的に取り組むようになる。
1951: 疎開から帰還
精力的に活動し、多くの作品を発表し国内外で各賞受賞。
1955: サンパウロ・ビエンナーレ 1956: ヴェネツィア・ビエンナーレ
国際的な展覧会で続けて最高賞を受賞する快挙を成し遂げる。これにより「世界のムナカタ」となり、全世界から注目を集めるアーティストとなる。
1957: 日展審査員
戦後の官展で審査員を務める。
1959: 初渡米 夏、渡欧
世界から注目を集める中、初めて渡米する。主な目的な巡回展と講演会。夏にその流れで同じく渡欧してヨーロッパ各地を巡る。敬愛するゴッホの墓もこの時に訪れる。
尚、この頃より眼病が進行し、翌年、左目が失明するが創作意欲は衰える事なく続く。
棟方志功はこれを含め、生涯4度、渡米している。
棟方志功にとってこの海外遠征の影響は大きく、作品にも変化が生まれる。特に有名なのがボッティチェリの「ヴィーナス誕生」をモチーフとした作品を多く生み出している。
1970: 大阪万博「大世界の柵ー乾」出品
大阪万博の日本民藝館の為の板画壁画「大世界の柵・乾ー神々より人類へ」を出品。
1964年、東京オリンピックに向けて新設した倉敷国際ホテルの壁画作品「大世界の柵・坤ー人類より神々へ」と兄弟作で乾坤併せて全長27mの巨大作品となった。
1970: 文化勲章→文化功労者
芸術家にとって最高級の名誉賞。
1974: 渡米中に倒れ、帰国後入院
4回目の渡米中に倒れる。
1975: 肝臓癌で死去、棟方志功記念館開館
棟方志功記念館は2023年で閉館予定。