掛軸の歴史

掛軸塾: 掛軸の歴史


掛軸の歴史: 中国での掛軸 | 古代~宋まで

掛軸は古くは中国を起源として日本に伝わったと考えられている。チベットにも掛軸と似たような形態のタンカが存在するが布に作品が縫い付けられている形状から日本の掛軸の源流は中国で間違いはないと考えられる。

中国の文献によれば掛軸の原型となったのは部屋の壁に掛けられていた縦長の絹の垂れ幕であったという説がある。紀元前2世紀の墳墓である馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)からこの絹の垂れ幕やそこから発展したと考えられる掛軸の原型が発掘された事により、これらは中国の前漢時代(紀元前206年 – 8年)には既に存在していたと証明されている。その後、中国の唐時代(618年–907年)にかけて現代に通じる掛軸の様式に体系化されていき、宋時代(960年 – 1279年)に更なる発展を遂げた。

当初は「掛けて拝する」事に用いられ、礼拝用の意味合いが強くあったと考えられている。桐箱に入れると持ち運びに容易である事と、比較的複数生産が可能であった為、掛軸は仏教の普及の為に中国では発展していった。

掛軸の歴史: 飛鳥時代~平安時代 | 礼拝の対象としての掛軸

日本では仏教と共に伝わったとされており、すでに飛鳥時代(592年-710年) に掛軸が仏画として入ってきていたと考えられるがこの頃のもので現存している物は私の知る限りでは存在しない。

平安時代に遣唐使として中国に渡った空海により曼荼羅が持ち帰られた事により日本でも曼荼羅製作が始まり、そこから飛躍的に仏画の製作や掛軸の表装技術が発展していったと考えらえる。現存する平安時代(794年-1185年)の間に製作された掛軸の多くが仏画である事からこの時代も引き続き仏画の為の掛軸という存在であったと考えられる。

この頃、中国では既に水墨画が山水画の技法として成立し、禅宗の普及により肖像画も描かれるようになっていた。

掛軸の歴史: 鎌倉時代 | 水墨画の伝来

その後、 鎌倉時代(1185年-1333年)に入り、 日本と中国の間で禅僧の往来が盛んとなり日本に禅宗と共に水墨画が伝わり盛んとなった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」なども描かれるようになった。室町時代以前のこの時期の水墨画は絵仏師や禅僧が中心となって製作された。

禅宗では悟りの法を師匠から弟子へ伝える事を重視する考え方であり、師匠の法を継いだ事を証明する為に弟子に与える師匠の肖像画「頂相」や禅宗の始祖である達磨大師をはじめとする祖師像などの絵画作品の需要があった。なお、水墨画と禅宗の教義には直接の関係性はなく、水墨画は中国からの文化のひとつとして受け入れられたと考えられる。それを裏付けるものとして多宗派の寺院の装飾にも水墨画が用いられている事が挙げられる。

鎌倉時代に中国よりもたらされた水墨画の流行により、掛軸はこれまでの「掛けて拝する」という仏教仏画の世界から、花鳥風月の水墨画など独立した芸術品の魅力を引き立てる補完品としての機能を強めていく。この中国から伝わった文化を宋元(そうげん)文化と呼ぶ。

掛軸の歴史: 室町時代 | 和の文化の確立と茶道

宋元文化の影響は室町時代(1336年–1573年)になっても続き、 禅僧はそれらを体現する中国通の文化人として 地位を得る事となった。特に足利将軍に仕える同朋(どうほう)と呼ばれる芸術指南役の存在は大きく、能阿弥、芸阿弥、相阿弥らの活躍によって更なる文化の広がりを見せ掛軸も発展していった。この時期には「詩画軸」(しがじく)と呼ばれる画面の上部の余白に画題にちなんだ漢詩を書いた掛軸が日本でも描かれるようになった。代表作として先ほどの同朋で紹介した芸阿弥が描いた「観瀑図」(かんばくず)や将軍と密接な関係にあった如拙(じょせつ)の「瓢鯰図」(ひょうねんず)などが挙げられる。

八代将軍である足利義政は特に文化活動を好み、それまでの武家、公家らの文化と濃厚な宋元文化を融合して東山文化を築き、後世の美術にとってのひとつの規範が出来上がった。現在わたしたちが「和室」と呼ぶ設えや、「和風」と呼んでいる様々な文化のほとんどがこの時代に形を整えられたと言われている。

「わび」、「さび」、「幽玄」などの日本特有の美意識もこの時期に熟成されたと考えられている。掛軸にとっては切っても切れない存在である「床の間」(正しくは「床」)の形もこの時代に完成された。 床の間で最も重要なものはその中に飾られる掛軸とされ、床の間は「日常と芸術を繋ぐ空間」として考えられ、風景や花鳥画、肖像画や詩などが人気の画題となっていった。またこの時期になると中国からもたらされた茶の人気が高まり「茶の湯」の文化が生まれていった。

様々な多様性を見せた室町時代前期~中期の美術だが、足利将軍の跡継ぎ問題によって続いた戦乱「応仁の乱」によって大きな影を落とす事となる。京都を舞台に十年以上も続いた戦乱により、京都市街をはじめ花の御所まで消失した為、古代以来の多くの絵画作品が失われた。この戦乱によりこれまでの古くからのしきたりや慣習、社会秩序が大きく変わると共に、美術史も様々な転機を迎える事となる。これまでの荘園制の崩壊と足利将軍の権威の失墜は、絵所預、同朋衆といった既成のシステムを弱体化させた一方で、京都が戦火に見舞われたことで多くの文化人・知識人が地方の守護大名のもとへ身を寄せたため、文化の地方伝播が進行した。大内氏の拠点山口で活躍した雪舟がその代表である。

このように戦国大名や町衆の文化状況への積極的な参画によって美術のマーケットは拡大・多様化した。この状況に絵師・絵師集団も新たな対応を迫られるが、そこで成功をおさめたのは、将軍などのお抱えという権威を世襲制によって維持しながら、より企業的な合理性をもちえた集団であった。絵画における狩野派は、その典型である。周文・宗湛(そうたん)の後を継いで将軍関係の御用をつとめた狩野正信に始まる狩野派は多くの画家を組織化し分業システムを確立した。これにより上層から下層までの広い顧客層の様々な要望に応える事を可能にしマーケットを席巻した。

茶の湯の文化に関しても足利義政の茶の師匠である村田珠光が応仁の乱前まで続いていた茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。千利休が掛軸の重要性を言葉にするようになると、茶を愛する人達により掛軸が爆発的に流行するようになる。来客者、季節、昼夜の時間を考慮して掛軸を取り替える習慣が生まれ、来賓時、その場面の格式などを掛軸で表現することが重要視される考え方が生まれていった。

また鎌倉時代には仏教の様々な宗派が生まれた。その中の一つである浄土真宗では「南無阿弥陀仏」の六字名号を本尊とし、中興の祖である蓮如(1415年-1499年)は「木像よりは絵像、絵像よりは名号」が重要とし門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」に名号を書き与えて布教活動に務めたとされる。これにより浄土真宗門徒の多い地域では「南無阿弥陀仏」の掛軸が根付いていく事になる。

掛軸の歴史: 安土桃山時代 | 権力者による華やかな文化

桃山時代(1573年 – 1603年)には時の権力者である織田信長と豊臣秀吉が茶の湯を非常に好んだ事もあり、床の間の様式は急速に発展し、それに伴って絵画技術や表装技術も更なる発展をしていった。わずか50年に満たない短い時代だが、美術史で重要視されるのは、それまでの時代に比べて変化がはやく、豪華でわかりやすい作品が今に伝わっているからといえる。日本美術の大きな特徴である豊かな装飾性は、この時代にひとつのピークを迎えた。特に信長・秀吉に重用され、その造営した城郭・殿舎の大半に腕を揮った狩野永徳は、文字通り天下人の御用絵師であり、桃山時代を代表する画家であった。この時代の末期は再び天下が乱れる事となり、狩野派は各権力者にそれぞれ一派を分散させる事により生き残りを画策したと言われている。狩野探幽は弟の尚信・安信とともに徳川将軍家の御用絵師としてその地位を確立し、その後の流派の繁栄の基礎を築いた。その一方で豊臣家と密接な関係があった狩野山楽の画系は、京都に残り活躍する事となった。これを「京狩野」という。

桃山時代には、狩野派のほかに長谷川等伯、海北友松、雲谷等顔、曾我直庵などの有力な画家が輩出し、それぞれに流派を形成した。また琳派の祖となる本阿弥光悦や俵屋宗達が活躍したのもこの桃山時代から江戸時代初期である。

掛軸の歴史: 江戸時代 | 狩野派を中心とした文化の成熟期

長い戦乱の時代が終わり、17世紀の初めには徳川家による支配が確かなものとなり、美術の世界でも次第に熟成された表現が生まれていく。狩野永徳の孫・探幽は若いころから徳川家との密接な関係を築き、幕藩体制における狩野派の地位を盤石の物とした。将軍に直接まみえる事が出来る奥絵師という画壇のヒエラルキーの頂点にあり、日本全国の大名諸侯の御用絵師を務めたのもほとんどが狩野派であり、町人相手に絵を教える「町狩野」と呼ばれる画人もいた。江戸時代(1603年 – 1868年)において画家になろうと志す若者たちは、すべからく狩野派に学ぶように組織化されていたといえる。この時代に多くの画家を輩出した背景にはこうした狩野派が絵画教育の基本的部分を担い、世間の美術的素養の底上げと拡大を行った所にある。逆にその結果、流派の存続こそが狩野派の至上の目的と化し、突出した個性を排除しがちになったとされる。( 例: 久隅守景や英一蝶など)

また明朝式表具が日本へ入り、文人画には文人表装などが用いられ、表具の技術技巧が著しく発展を遂げた。大和錦・絵錦唐織など複雑な文様の織物が好まれ、西陣など織物産地で次々生まれていった。

18世紀には、江戸を中心とする狩野派とは別軸で京都画壇が栄え、日本画を楽しむという価値観を持った人達に支持され、掛軸もそれにつれ芸術価値を高めていき肉筆浮世絵の分野でも花開いた。

掛軸の歴史: 明治時代 | 西洋画の衝撃から世界に通用する日本画へ

明治維新という一種の革命の後で、明治時代(1868年 – 1912年)初期の美術は未分化の混沌とした状態に陥った。徳川幕府というパトロンを失った狩野派は解散し、生活に困窮し画家から新たな職業に就いた者なども存在した。また西洋画の流入によりこれまで明確に意識されてこなかった自国の絵画について定義をしながらその上で新たに世界に通用する日本画の模索を同時並行で行う事となるが、相対的に明治初期は西洋の物に注目が集まり、それに比べ日本の芸術品の評価は低い物となっていった。さらに追い打ちをかけたのが政府から出された神仏分離令の拡大解釈により発生した廃仏毀釈の運動が掛軸を含む多くの仏教美術を荒廃させた。

しかしその後、アメリカのアーネスト・フェノロサによって日本美術の優秀さが説かれ、狩野芳崖らの画技が称揚され、明治になって力を失ってしまった日本画の画家たちは希望を得た。フェノロサと活動を共にした岡倉天心は東京美術学校(今の東京芸術大学)の開校に尽力し、後に日本美術院をつくる画家たちである横山大観、菱田春草、下村観山らが入学してきた。彼らに代表される革新派と旧来の伝統画の枠組みを重要視する保守派による切磋琢磨、また大きな枠組みである日本画と西洋画との切磋琢磨、自国の文化を世界基準にまで高め先進国入りを果たしたい政府の存在などが複雑に絡み合いながらこの時代の日本画は再び活気を取り戻していく。

明治時代以降は人々が自由に自分の職業を選べるようになった為、画家となる人口も増加し日本絵画は隆盛を極めていき、それに伴い掛軸の人気も飛躍的に高まっていった。

掛軸の人気に伴い、掛軸用の裂地もこの時代に多く製造されるようになる。これまで掛軸に使われていた裂地は多くは着物などを解いて用いられていた為、裂地の紋様が大きい物が多かったが、明治時代以降からは紋様の小さな掛軸の魅力を引き立てるのにふさわしい裂地が多く製造されるようになる。

1894年(明治27年)と1904年(明治37年)に、日本は日清戦争と日露戦争を戦い勝利した。このふたつの勝利により明治政府が目標としていた富国強兵の先進国入りが実現したという思いを日本は持つようになる。先進国としての文化を示すため、政府は国主催のおおがかりな展覧会を開く事を考え、1907年(明治40年)に文展(文部省美術展覧会、後の日展)が誕生する。画家たちに権威と名誉が授けられ、国家の美術となっていき、明治の美術は時代の終わりを迎える。

掛軸の歴史: 大正時代 | 自我と個性を尊重する芸術

自我と個性を尊重する風潮が高まった大正時代(1912年 – 1926年)において「美術は個人の自由な意思による創作によって成立する」というイデオロギーの元、国家をバックにした文展に反発する画家達が出現するようになる。その代表的な団体が日本美術院である。明治時代に岡倉天心を中心に設立されたこの団体は、様々な事情により活動が停滞していたが、岡倉天心の死を受けて弟子である横山大観を中心に再興された。新しく復活した日本美術院が行った展覧会を「再興院展」と呼び、今村紫洸、安田靫彦、速水御舟、小川芋銭、小林古径、前田青邨など若く優れた画家達が登場する。文展、再興院展の他にも多くの団体や画家が登場しそれぞれのイデオロギーの元、切磋琢磨する事により明治時代に続き大正時代も日本美術の発展は続いた。

掛軸の歴史: 昭和前期 | 戦争の影響

1931年(昭和6年)に満州事変が起こって以後、美術の世界にも軍国主義の影響が次第に強まる。一部の画家たちは、自由な制作活動を通じて、戦争へと向かう国家に抵抗する姿勢を示したが、多くの画家たちは戦争に協力する道を選ぶ他なかった。1941年(昭和16年)、太平洋戦争に突入し、軍部は戦争に反対する美術家たちを弾圧する一方で、日本軍の勇ましい戦いぶりを描く戦争記録画の製作を画家達に依頼し、従軍画家として戦地に赴き戦争画の製作を行い、それらを並べた戦争美術展が戦意高揚を目的に相次いで開かれた。また、数多く出版されていた美術雑誌も、取り締まりによってまず八誌となり、次に二誌となり、最後には一誌だけに制限された。1944年(昭和19年)には公募展も禁止される。

掛軸の歴史: 戦後~高度経済成長期 | 活気を取り戻した日本美術

戦後の美術は、まず戦前から活躍していた作家達を中心にして再スタートを切る。戦争体験をどのようにとらえるかを大きな問題として出発した。その後、世界の美術の中心となったアメリアで生まれた様々な表現方法が日本にもたらされ、美術の境界はあいまいになり美術表現は多様化していった。1970年(昭和45年)に大阪で開催された万国博覧会は数多くの美術家、建築家、デザイナーが参加した一大イベントであり、戦後に登場した実験的な美術が大きな位置を占め、再び日本の美術に活気が戻ってきた。

日本画では1974年(昭和49年)、創造美術を前身とする新制作協会日本画部が独立して、創画会が結成された。こうして日本画界は、東山魁夷、杉山寧、高山辰雄らの日展、奥村土牛、小倉遊亀、平山郁夫らの院展、上村松篁、山本丘人、加山又造らの創画会に大きく三分される事となる。

戦後の復興~経済成長に伴い空前のマイホームブームが日本で起こる。これにより床の間付の和室を持つ家庭が急増し、掛軸の需要が一気に高まる。需要に応じて様々な画題が考えられるようになり掛軸絵画の技法や表現もピークを迎える。

掛軸の歴史: バブルの崩壊~現代 | 長く続く衰退期

1990年代に入りこれまでの好景気が終焉を迎え(バブル崩壊)、徐々に美術市場の盛り上がりが衰退していく。またこの頃から日本人の価値観の変化が顕著になってきだし、床の間をはじめ和室を持たない建物も増加していく。伝統的な行事も簡素化に向かう中、掛軸の需要は衰退の一途を辿っている。高度経済成長期に生まれた掛軸に関連する事業者も減少し続け、掛軸を製造する職人(表具師)の後継者不足も深刻な問題であり廃業する事業者も多い。

CEO Message

あなたと掛軸との懸け橋になりたい


掛軸は主人が来客に対して季節や行事などに応じて最も相応しいものを飾り、おもてなしをする為の道具です。ゲストは飾られている掛軸を見て主人のおもてなしの気持ちを察して心を動かす。決して直接的な言葉や趣向ではなく、日本人らしく静かにさりげなく相手に対しておもてなしのメッセージをおくり、心をかよわせる日本の伝統文化です。

その場に最もふさわしい芸術品を飾り、凛とした空間をつくりあげる事に美を見出す・・・この独特な文化は世界でも日本だけです。

日本人が誇るべき美意識が詰まった掛軸の文化をこれからも後世に伝えていきたいと我々は考えています。



代表取締役社長
野村 辰二

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会社概要

会社概要

商号
株式会社野村美術
代表取締役
野村辰二
本社
〒655-0021
兵庫県神戸市垂水区馬場通7-23
TEL
078-709-6688
FAX
078-705-0172
創業
1973年
設立
1992年
資本金
1,000万円

事業内容

  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
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