【展覧会予習】「大阪の日本画」展 @ 大阪中之島美術館

 

2023年上半期大注目の展覧会が大阪中之島美術館の開館一周年記念として行う「大阪の日本画」展。

こちらは大阪で開催された後、東京でも開催され、あわせて約半年に渡って行われる超長期展覧会。

内容は大阪画壇に特化した日本画家の作品を集めた展覧会。

大阪画壇が日本美術史の中で存在感を増してくるのは明治以降、近代になってからなんですが大阪らしくかなり個性派揃いの絵師達ばかり。

それらをMAX集めた初めての展覧会、この規模感は後にも先にもないので大注目の展覧会になります。

今回はそんな「大阪の日本画」展をより楽しむ為の予習解説としてチェックしておきたい人物をご紹介したいと思います。

 

 

北野恒富

北野恒富

 

近代の大阪画壇において絶対に外せない人物が北野恒富(1880-1947)。

近代以降の大阪画壇は美人画家を多く輩出しているが、その流れを作った人物が北野恒富でまさに「大阪画壇の美人画の父」と言える存在です。

その特徴は「悪魔派」とも呼ばれた頽廃的な雰囲気を特徴とする美人画。

どこか憂いを帯びたような影のあるような女性をアートに昇華させた画風が人気となりました。

暖か

暖か

 

鏡の前

鏡の前

 

鮮烈な赤色を用いた作品も特徴的。

宝恵籠

宝恵籠(ほえかご)

 

画業の後期になるとイケイケドンドンギャンギャンの画風も落ち着き、清澄で簡潔、優美な作風へと変化していっているのでそこも見どころです。

 

 

島成園

島成園

島成園 (1892-1970)

北野恒富が「大阪画壇・美人画の父」とするなら母的存在がこの島成園。

カリスマ性が非常に高い人物で、当時彼女に憧れて女性画家を志し、弟子入りした者も非常に多かった。

大正から昭和初期にかけてモダンな文化が花開いた時代、東京では池田蕉園、京都では上村松園という女性画家が活躍する中、大阪で若干20歳という若さで華々しくデビューしたのが島成園でした。島成園は「三都三園」として上記二人と並び称されるようになりました。

しかも彼女はしっかりと師についたわけではなく独学の部分が強いという天才肌。格好良いですね~。

元々お父さんとお兄さんが絵の仕事をしていたというのも関係しているのですが、前述の北野恒富らに軽く教えてもらう事はあったが正式には弟子入りする事はなかったそうです。(1聞いて10理解するタイプなのかな…そんな所も当時の女性からしたら憧れたんでしょうね)

そして画風もかなり攻撃的な作品が多い。元々、島成園は遊郭や花街で幼少期を過ごした事もあり、単なる綺麗な女性を描くというよりか女性の内に秘める影の部分や社会問題などを表現したメッセージ性の強い作品が彼女の特徴であった。当然、周りからは批判の声やヤッカミなども多々あったがそれに負けじと戦った事でも女性からしたら憧れたんでしょうね。

大阪が生んだカリスマ美人画家の作品も是非お楽しみください。

 

菅楯彦

菅楯彦「阪都四つ橋」

菅楯彦(1878-1963)「阪都四つ橋」

 

大阪の風俗をこよなく愛し、「最も大阪らしい画家」と呼ばれた菅楯彦。

絵の世界に入ったのは陶磁器の絵付けなどをしていた父が病に倒れ、12歳にして生活費を支える為に家業を継いだのがきっかけ。

父から多少の手ほどきを受けていたとはいえ、当然未熟な腕前に注文が入る事はなく生活は困窮を極めました。

そんな中でも独学に独学を重ね、ありとあらゆる流派を研究し吸収し力をつけていきました。その知識量は学者をも凌ぐ程の努力家だったと言われています。

そんな中、転機となったのが結婚。菅楯彦は縁あってなんと当時日本で3本の指に入る芸妓さんと結婚しました。

大阪の中堅絵師とスーパーアイドルの結婚は当然話題となり、その流れで菅楯彦の絵も売れるようになったという…。

しかし幸せは長くは続かず、生来体が弱かった奥さんは37歳で夭折してしまいます。

菅楯彦は悲嘆にくれますが、この悲しみをバネにより一層、精進に努めたそうです。

苦労が多い人生を歩んだ菅楯彦ですが、その分人の気持ちもよく察する人で、北野恒富が奥さんに先立たれた時、お通夜の席で泣いている恒富に、

「親を亡くして泣けば孝行者。子を失って涙すれば慈父とたたえられるが、女房が死んだと泣いているとあほうと笑われる。そやが、わしもあほうやった…」と言って慰めの声をかけました。

そんな人情味あふれる絵師が好んで描いた情緒あふれる大阪の風俗を是非お楽しみください。

 

矢野橋村

矢野橋村(1890-1965)

矢野橋村(1890-1965)

江戸時代に一世を風靡するほど人気だったのが南画。(南画は中国の文人画、南宗画がジャパナイズされた画風。ざっくりというとテクや伝統よりも精神性や脱俗を重視したイズムの画風)

明治時代になりアーネスト・フェノロサの美術真説でボロカスに言われてからは人気がだだ下がりでしたがそれでも東京を離れると、ある一定の支持者層が存在していた。

大阪もそのひとつであり、そんな中、明治以降の近代的な感覚を取り入れた新しい南画を生み出そうと活躍したのが矢野橋村。

矢野橋村_那智奉拝

矢野橋村「那智奉拝」

 

後進の教育にも熱心で、当時大阪に美術学校がなかった為、私立大阪美術学校を設立し、自ら校長になり、教鞭をふるった。これにより全国から南画を志す生徒が集まり研究と発表の場となった。

その他、現代、日本最大の水墨画団体である公益社団法人日本南画院の設立者の一人としても知られています。

新南画と呼ばれたこれまでの南画とは一味違った作品を是非お楽しみください。

 

 

CEO Message

あなたと掛軸との懸け橋になりたい


掛軸は主人が来客に対して季節や行事などに応じて最も相応しいものを飾り、おもてなしをする為の道具です。ゲストは飾られている掛軸を見て主人のおもてなしの気持ちを察して心を動かす。決して直接的な言葉や趣向ではなく、日本人らしく静かにさりげなく相手に対しておもてなしのメッセージをおくり、心をかよわせる日本の伝統文化です。

その場に最もふさわしい芸術品を飾り、凛とした空間をつくりあげる事に美を見出す・・・この独特な文化は世界でも日本だけです。

日本人が誇るべき美意識が詰まった掛軸の文化をこれからも後世に伝えていきたいと我々は考えています。



代表取締役社長
野村 辰二

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会社概要

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商号
株式会社野村美術
代表取締役
野村辰二
本社
〒655-0021
兵庫県神戸市垂水区馬場通7-23
TEL
078-709-6688
FAX
078-705-0172
創業
1973年
設立
1992年
資本金
1,000万円

事業内容

  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
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