橋本関雪の生涯

 

橋本関雪は1883年に神戸で生まれ、幼少期より中国文化に親しみ、絵師を志すこととなった日本画家です。

四条派の絵師の下で技術を磨いた後、近代日本画壇の二大巨匠の1人である竹内栖鳳に師事しました。その後、観点を中心に活躍し自らのスタイルを追求しました。

彼の作品は緻密な描写と深い感情表現で知られ、特に動物画はそのクライマックスとされています。

そして1945年に生涯を閉じるまでその情熱的な創作活動は人々の心に深く響きました。

これからはそんな橋本関雪の生涯とその代表作について詳しく見ていきましょう。

 

 

1883: 神戸に生まれる

1883年、日本画の巨星となる橋本関雪が神戸に誕生しました。

父は学者であり、明石藩の儒者として名を馳せていました。母は芸術に深く傾倒しており、特に書画に秀でていたといいます。

しかし、5歳の頃に母が家を出てしまった関雪は、祖母を中心に育てられることになりました。

この祖母の英才教育により、関雪は早くから中国文化に触れる機会を得る事となりました。その影響は彼の芸術観に深く刻まれ、後の彼の作品にも色濃く反映されていきます。

また、彼は絵師を志し、四条派の絵師・片岡公曠に弟子入りするなどして、芸術への情熱を深めていきました。

 

1903: 竹内栖鳳 師事

1903年、関雪は近代日本画壇の二大巨匠の1人、竹内栖鳳に師事することとなりました。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

竹内栖鳳は日本画の伝統を受け継ぎつつ、新たな表現を追求した画家で、その芸術に対する姿勢は関雪に大きな影響を与えました。

栖鳳は関雪にとって尊敬すべき師であると同時に、自身の芸術観を追求するために乗り越えるべき存在でもありました。

そのため、関雪は栖鳳の指導を受けつつも、自身の画風を追求し続け、その結果、独自の美学を生み出すこととなります。

 

1903: 岩見ヨネと出会う

同じ1903年、関雪は岩見ヨネという女性と出会いました。ヨネとの出会いは関雪にとって大きな転機となり、その後の人生と芸術活動に深く影響を与えることとなります。翌年1904年、関雪とヨネは結婚し、互いに深い愛情を持って生涯を共に過ごすこととなりました。

 

1907: 第一回文展出品

1907年、関雪は第一回文展に作品を出品しました。

文展とは、明治時代末期から昭和時代初期にかけて存在した国主催の美術展覧会であり、その中で関雪は自身の才能を披露し、自身の芸術表現を広く世に問うたのです。しかし、残念ながら関雪の作品はこの時点では落選となりました。

初めての大きな舞台での失敗は、関雪にとって大きなショックであったと同時に、新たな挑戦への契機ともなりました。その後の彼の作品には、この落選がもたらした経験と学びが深く反映され、独自の画風の確立へと繋がっていきます。

 

1908: 第二回文展に出品

1908年、第一回文展での落選から一年、関雪は再び文展に作品を出品しました。前年の失敗を乗り越え、再び挑戦することを選んだ彼の決断は、その後の芸術活動における粘り強さと向上心の証とも言えるでしょう。そして、この年の文展で彼の作品はついに入選を果たしました。これは関雪にとって初めての大きな成功であり、その後の彼の芸術家としての道筋を示す重要な一歩となりました。

入選を機に関雪は上京し、新たな環境での活動を開始します。都会での生活は彼の視野を広げ、様々な芸術と触れ合う機会を提供しました。その結果、関雪の芸術観はさらに深化し、独自の表現力を増していきました。

 

1913: 初の中国旅行

1913年、関雪は初めて中国を訪れました。幼少期から憧れていた中国文化に触れるためのこの旅行は、彼の芸術活動に大きな影響を与えることとなります。重慶、蘇州、上海、北京といった主要都市を訪れ、深く中国文化を体感しました。

中国での体験は関雪の作品に新たな風を吹き込みました。古代からの伝統的な中国の風景や文化、人々の暮らしを目の当たりにし、その美しさや深みに触れることで、彼の表現力は一層深化しました。また、中国の自然や歴史的な建造物から得たインスピレーションは、彼の作品に新たな視点と広がりをもたらしました。

その後、関雪は生涯にわたり頻繁に中国を訪れ、その回数は30回から60回とも言われています。これらの旅行は彼の作品に多大な影響を与え、中国の風景や文化を取り入れた作品は多くの人々から高く評価されました。関雪の中国への深い愛情と理解は、彼の作品を通じて広く伝えられ、多くの人々に感動を与えました。

中国旅行後、関雪は京都に移り住みます。都市と自然が混ざり合う京都の風景は、彼の作品に新たな色彩を加えました。また、京都の伝統的な日本画の中心地であることも、彼の芸術活動に新たな刺激を与えました。

1915: 9th文展「猟」出品

1915年、橋本関雪は第九回文展に「猟」という作品を出品しました。

 

この作品は、関雪の豊かな表現力と独自の視点が見事に融合した一品であり、実質的な最高賞である二等賞を受賞しました。「猟」は、関雪の代表作の一つとして広く認知されています。

この作品は、緻密な筆使いと独特の色彩感覚が見事に融合した作品で、関雪が追求する「美」が具現化された形と言えるでしょう。

この「猟」の成功により、関雪の名は日本画壇に広く知られるようになりました。そして、その後も彼はその独自の画風と深い表現力で多くの傑作を生み出し続け、日本画の世界に新たな風を吹き込みました。この成功は、関雪の芸術家としての地位を確固たるものとし、彼の作品が広く愛される基盤を築いたと言えるでしょう。

 

1916: 白沙村荘完成

1916年、橋本関雪の邸宅である白沙村荘が完成しました。総敷地面積一万㎡の広大な敷地には、アトリエ3つと茶室1室が設けられ、約7割の広さの庭園も特徴的です。この邸宅は、関雪の芸術活動の場であると同時に、彼の美意識を表現する空間でもありました。

広大な庭園は四季折々の自然美を楽しむことができ、関雪にとっては絶えず新たなインスピレーションを与える場でした。また、邸宅内のアトリエでは、関雪が自身の感性を最大限に発揮し、多くの名作を生み出しました。アトリエ3つという豪華な設備は、彼が多様な表現を追求していたことを示しています。

 

1918: 12th文展「木蘭」出品

1918年、橋本関雪は第十二回文展に「木蘭」という作品を出品し、特選を受賞しました。「木蘭」は、関雪の代表作の一つであり、彼の独自の美学と技術が見事に結実した作品です。

 

「木蘭」は、繊細な筆使いと鮮やかな色彩が特徴的な作品で、関雪の深い感性と高い技術力が見事に結実しました。

特選受賞は、関雪の才能と技術力を高く評価した結果であり、彼の芸術活動への自信をさらに深めました。この成功を受けて、関雪はその後もさらに多くの傑作を生み出し続け、日本画の世界に新たな風を吹き込みました。

 

1921: 第1回ヨーロッパ旅行

1921年、橋本関雪は初めてヨーロッパへの旅行を実現しました。これは関雪が西洋美術に触れる貴重な機会となり、この旅行を通じて西洋の美術作品を直接観察し、その技術や構成、色彩などを吸収しました。

しかし、関雪がヨーロッパの美術に深く触れることで、彼自身が東洋画家であることを再確認したとも言われています。西洋の芸術に触れることで、関雪は自身の芸術の根源となる東洋美術の価値を再認識し、その重要性を再確認したのです。

このヨーロッパ旅行は、関雪にとって大きな刺激となり、彼の芸術活動に新たな方向性を与えました。西洋美術と東洋美術の間で揺れ動く彼の感性は、その後の作品にも反映され、彼の作品が持つ独特の魅力を一層高めることとなりました。

 

1923: 竹丈会脱会

1923年、橋本関雪は師である竹内栖鳳が主宰する竹丈会を脱会しました。これは、彼が自身の芸術観を確立し、独立した芸術家として歩む決意を固めた象徴的な出来事でした。

竹内栖鳳は近代日本画壇を代表する巨匠であり、関雪にとっては恩師であると同時に、自己の芸術活動の目指すべき先として存在していました。その結果、彼は竹丈会を脱会するという大きな決断を下しました。

また、竹丈会脱会には師である竹内栖鳳との確執があったという噂も存在します。一説によれば、栖鳳は関雪の技量の高さに嫉妬し、そのために関係が悪化したとも言われています。

竹丈会脱会後の関雪は、より自由な芸術活動を展開し、新たな表現を追求しました。これは彼が自身の芸術観を確立し、独自の道を歩むための重要なステップであり、その後の彼の芸術活動に大きな影響を与えました。

 

1927: 第2回ヨーロッパ旅行

1927年、橋本関雪は二度目のヨーロッパ旅行に出発しました。彼は再びヨーロッパの美術に触れることで、自身の芸術活動に新たな視点と刺激を求めていました。この旅行では、前回の経験を活かしてさらに深く西洋美術を学びました。

この二度目のヨーロッパ旅行後、関雪は海外の展覧会での活躍も目立つようになります。

彼の作品は、独自の感性と東西の美術を融合した表現力が高く評価され、多くの人々から称賛を受けました。この成功は、関雪が国際的な視野を持つ芸術家として成長した証とも言えるでしょう。

 

1932: ヨネ没

1932年、橋本関雪は最愛の妻であるヨネを亡くしました。彼らの結婚生活は約30年にわたり、その間ヨネは関雪の創作活動を支え続けました。そのため、ヨネの死は関雪にとって計り知れない喪失感をもたらしました。

しかし関雪はこの悲劇を乗り越え、その悲しみを芸術に昇華させることで新たな作品を生み出す力となりました。

 

1933: 14th 帝展「玄猿」

1933年、橋本関雪は帝展で「玄猿」を出品しました。この作品は、前年に亡くした最愛の妻ヨネへの哀悼の意を込めて制作されたもので、関雪自身の深い感情が巧みに表現されています。

 

「玄猿」は、その名の通り、猿を主題にした作品です。関雪の描いた猿の表情は、深い悲しみと憂いを含んでおり、見る者の心に強く訴えかけます。また、画面構成も巧みで、シンプルながらも力強い印象を与える作品に仕上がっています。

この作品は、関雪が自身の感情を直接的に表現した作品の一つで、その中には彼が抱いた深い悲しみと愛情が込められています。

「玄猿」は、その卓越した芸術性と感情表現の優れた力により、当時の帝展で大いに評価され、昭和天皇もこの作品を大いに気に入りました。その結果、文部省が作品を買い上げ、これが関雪のさらなる名声を確立する一助となりました。

この「玄猿」以後、関雪が生涯で描いた動物画は、その感情的な深みと緻密な描写により、関雪芸術のクライマックスと言われています。

ヨネの死という悲劇を乗り越え、新たな表現を追求した関雪の芸術活動は、その後の日本画壇に大きな影響を与えました。

 

1945: 没

1945年、橋本関雪は人生の幕を閉じました。彼の生涯は、自身の深い感情と独自の視点を表現するための絶え間ない追求の連続であり、その創作活動は日本画壇に深く刻まれています。

関雪は、自身の生涯を通じて、自己の内面と外界との関わりを描き続けました。中国文化への憧れ、師・竹内栖鳳への尊敬と競争心、最愛の妻ヨネへの深い愛情と喪失感、そして西洋美術への興味と自身の東洋画家としてのアイデンティティー。それら全てが彼の作品に反映され、彼独自の芸術世界を形成しました。

また、彼の作品は、その緻密な描写と深い感情表現により、多くの人々から愛され続けています。特に、彼が描いた動物画は、そのリアリティと感情的な深さから、彼の芸術のクライマックスとされています。

彼が亡くなった後も、彼の作品は多くの人々に感銘を与え続け、その影響は現代の日本画壇にも続いています。

 

 

CEO Message

あなたと掛軸との懸け橋になりたい


掛軸は主人が来客に対して季節や行事などに応じて最も相応しいものを飾り、おもてなしをする為の道具です。ゲストは飾られている掛軸を見て主人のおもてなしの気持ちを察して心を動かす。決して直接的な言葉や趣向ではなく、日本人らしく静かにさりげなく相手に対しておもてなしのメッセージをおくり、心をかよわせる日本の伝統文化です。

その場に最もふさわしい芸術品を飾り、凛とした空間をつくりあげる事に美を見出す・・・この独特な文化は世界でも日本だけです。

日本人が誇るべき美意識が詰まった掛軸の文化をこれからも後世に伝えていきたいと我々は考えています。



代表取締役社長
野村 辰二

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会社概要

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商号
株式会社野村美術
代表取締役
野村辰二
本社
〒655-0021
兵庫県神戸市垂水区馬場通7-23
TEL
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FAX
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創業
1973年
設立
1992年
資本金
1,000万円

事業内容

  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
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