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本阿弥光悦の全貌
本阿弥光悦ってどんな人?
本阿弥光悦は、桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した日本の総合芸術家、マルチアーティストです。
書道、陶芸、漆芸、能楽、茶の湯、作庭など様々な分野で優れた技術を持っていました。
彼の芸術活動は多岐にわたり、書道では和歌や詩文に卓越した才を発揮し、陶芸では*楽焼の田中常慶に習ったと思われる茶碗、漆芸においてはその繊細な技術と美意識が光る作品を数多く残しています。
まさに日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼べる芸術家が本阿弥光悦になります。
*楽焼: 楽焼(らくやき)は、轆轤(ろくろ)を使用せず、手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、750℃ – 1,200℃で焼成した軟質施釉陶器である。また、楽茶碗を生み出した樂(田中)家の歴代当主が作製した作品を楽焼という。またその手法を得た弥兵衛焼(後の玉水焼)、金沢の大樋焼も楽焼の一種である。 広義には同様の手法を用いて作製した陶磁器全体を指す。
光悦の生い立ちと家族背景
1558年、本阿弥光悦は、室町幕府の時代から続く京都の名家、本阿弥家に生まれました。
応仁の乱後、荒れた京都の復興を果たし、その後に文化の中心となった町人集団の商工業者「町衆」のひとつがこの本阿弥家でした。
彼の家族は、主に刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)を家業としており、そのため光悦は幼少期から日本の伝統工芸品に触れる機会に恵まれ、これが光悦の芸術への興味を育てました。(ただし、刀剣に関連した偉業はほぼ記録に残っていないという…汗)
また、彼の父親が本阿弥家の分家となったことで、光悦は芸術活動に専念する自由を得ました。
この自由な環境の中で、光悦は書や和歌などの文化活動に没頭し、彼独自の芸術スタイルを確立していきました。
家族から受け継いだ伝統と、自身の創造力を組み合わせることで、光悦は独自の芸術世界を築き上げることに成功しました。
芸術活動
書道
光悦は青蓮院の住職、尊朝法親王(そんちょうほっしんのう)から書道を学び、後に独自のスタイル「光悦流」を確立しました。
本阿弥光悦の書の特長は、書の上手さもさることながら、文字の配置の美しさや調和の美しさにあります。
ダイナミックな下絵に対して主に以下の4点の特徴が挙げられます。
・字粒の大小
・行間の広狭
・書き出しの高低
・墨の濃淡
寛永の時代には「寛永の三筆」の一人として知られ、多くの名筆を残しました。(残り二人は近衛信伊、松花堂昭乗)
漆芸
漆芸においては、独創的な蒔絵作品を数多く制作しました。
特に「舟橋蒔絵硯箱」は国宝に指定されており、その独特の形状と鉛板を使用した装飾が特徴です。
蒔絵(まきえ)は、漆器の表面に漆で絵や文様を描き、乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法です。
こちらの作品は金粉を全体に密に蒔いて作り出したされた硯箱です。
色々と突っ込み処の多い作品なのですが、まずその形状のおかしさでしょう。何故蓋はこんなにアーチ状なの?
当時はフラットが主流でしたし、なんならそのフラットを利用してお盆代わりに使っていたりなんて事もあったようなのに何故にアーチ?
この理由は後述するとして、そのアーチに何故か黒っぽい物が巻かれています。
「???? 何これ???」が第一印象です。
まるでお寿司の卵焼きのよう・・・
そして極めつけが「なんで蓋に文字書いてんの?」
もうパニック×3の作品がこの「舟橋蒔絵硯箱」でしたが、この謎をひとつひとつ紐解いていくと本阿弥光悦の鬼のようなこだわりが見て取れて面白味がわかりました。
まず、この卵焼きのお寿司の糊のような黒い部分は何なのかというとタイトルにある通り「橋」なんです。
そしてその橋の下に「舟」があるように見せる為に、アーチ状の橋にしているんです。
フラットよりもアーチの方が橋っぽく見えるし、立体的に色々な角度から見ても橋の下に舟があるような効果があるんですね、なるほど・・・。
そして文字についてですが、これは平安時代の公家・源等の歌「東路の佐野の舟橋かけてのみ 思ひわたるを知る人ぞなき」(東国の佐野にある舟を並べた上を渡る舟橋という危ない橋をかけるように、思いをかけてずっと恋し続けていますのに、それをあの人は知ってはくれないのです。)をあしらっています。
まずこの歌の意味が分かったようでわからなかったので必死こいて調べてみました。
昔々、群馬県の佐野という地方の川を挟んだ二つの村にそれぞれ住む恋人がいたそうです。
その川には小舟をつないだ上に板を渡しただけの簡易的な橋があるだけでした。
この恋人達は夜ごと橋を渡って逢瀬を重ねていました。
これを嫌った親が、ある夜、舟の板を外して置いたため、これを知らない二人は、川に落ちて死んでしまいました。
なるほど、この二人のように恋人を思っているのに伝わらないという想いをこの歌に込めているわけですね。
そしてその歌の文字を蓋に配しているのですが肝心の「舟橋」がありません。
そう、これは「舟橋はこの海苔巻きの部分だから想像してね」という本阿弥光悦のメッセージなんですね。
なんとも奥ゆかしいセンス。
そしてこの文字を蒔絵に組み合わせるというのはこれまでも多少はあったようですが、隠すように匂わせ程度にするのがほとんどだったのに対してここまで文字を前面に押し出したタイプは殆どありませんでした。
これは書道にも卓越していた本阿弥光悦が文字そのもののフォルムの美もこの蒔絵に融合させるために仕掛けた細工なのです。(さすがマルチアーティスト)
ちなみにこの海苔巻きは鉛板らしくそれを金槌で叩いて器形に馴染ませているみたいです(金槌の叩いた痕があるそうです。)
文字は銀を切り取って貼り付けているそうです。
様々な趣向がふんだんに取り入れられた本作品は、当然当時にしてもぶっとんでいたわけでまさに「美のゲーム・チェンジャー」だったわけです。
ただ、この作品のどこまで本阿弥光悦が製作に関わっていたのかはわかっていないそうです。(すべて一人で作り上げたとは考えられていないようです。)
陶芸
本阿弥光悦は陶芸においても優れた作品を残しており、特に楽焼の茶碗が有名です。
代表作には国宝の白楽茶碗「不二山」や赤楽茶碗「雪峯」、黒楽茶碗「雨雲」などがあります。
光悦の作陶は晩年期からだと言われているので、本職の陶芸家と比べると言わば素人芸に近い。
しかしだからこそ常識にとらわれない自身の美意識をふんだんに注ぎ込んだ作風が他に類を見ない名品を生み出し多くの人を魅了しました。
マルチ・アーティスト恐るべし…
琳派の創始
44歳の時、厳島神社の寺宝「平家納経」の修繕チームに俵屋宗達を迎え、その才能を開花させました。
その後、二人はお互いの芸術性を認め合い、コラボ作品を数多く生み出し、琳派の創始に大きく関与しました。
琳派については以下の動画をご参照ください。
芸術村の設立
1615年、本阿弥光悦は徳川家康から京都鷹峯の土地を与えられます。
何故かについては諸説ありはっきりとはわかっていませんが、本阿弥光悦は古来より続く貴族らによる雅な王朝文化を尊重し、朝廷ともつながりが深かったので、徳川家が都から遠ざけようと考えたからではないかという説もあります。
本阿弥光悦の茶道の師匠である古田織部は、武将としても大坂夏の陣で徳川方につき武功を挙げましたが、豊臣側と内通しているとの疑いをかけられ、自刃した事も関係しているのかもしれません。
とにもかくにも約9万坪の広大な領地(東京ドーム(約15000坪)6個分の広さ)に本阿弥光悦は芸術村「光悦村」を築きました。
ここでは、金工や陶工・画家・蒔絵師・筆屋・紙屋・織物屋など多数の芸術関係者が集結し、村には56もの家屋敷が軒をつらね、創作活動に専念しました。
光悦はここで、アートディレクターとしての役割も担い、様々な芸術作品の製作を指揮しました。
光悦の屋敷は、彼の死後に光悦寺となっており、彼の墓地もそこにあります。
本阿弥家DNA
本阿弥光悦の姉・法秀は尾形道柏と結婚しました。この尾形道柏が立ち上げた呉服屋が「雁金屋」であり、後の琳派大躍進の立役者となる尾形光琳が生まれたお店です。
本阿弥光悦と遠い姻戚関係にある尾形光琳にも卓越したマルチアーティストの才がありました。本阿弥家DNA恐るべしです。
尾形光琳に関しての動画はこちら。
「本阿弥光悦の大宇宙」展覧会
2024年1月16日から3月10日まで、東京国立博物館 平成館にて「本阿弥光悦の大宇宙」展が開催されます。
本阿弥光悦の全貌を作品を通じてご紹介すると共に、彼を取り巻く環境についても深堀してご紹介する注目の展覧会ですのでご興味ある方は是非ご覧下さい。