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【豊臣兄弟!】 豊臣秀長: 史上最強のNo. 2
第1章 百姓から武士へ -信長時代-
1540: 秀長、誕生
秀長は尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。兄は秀吉。3才年上。
秀吉の幼少期の話は諸説あり、はっきりとした事はわからないが、ある程度成長した後、家を出て仕官を目指したようです。
秀長の幼少期はさらに資料は無く不明であるが、恐らく家の農作業を手伝っていたのだと考えられている。
その後、転機があり、織田信長に仕官していた兄に従う形で秀長も仕官したと考えられる。豊臣兄弟の武士としてのサクセスストーリーはここから始まった。
1560: 桶狭間の戦い、1566: 墨俣城築城、1570: 金ヶ崎の退き口
秀吉が桶狭間の戦いに参戦したという確かな資料は存在しない。
墨俣城は別名一夜城とも呼ばれ、合戦の重要箇所に織田軍重鎮が築城を難儀していた中、一夜にして秀吉が城を築いたという逸話。恐らく後年による創作だと考えられている。
金ケ崎の退き口は、越前の朝倉軍と戦っていた織田軍の背後を同盟国であった浅井家が裏切り背後から挟撃する形となった織田軍の絶体絶命のピンチ。全軍退却の決断の中、最も過酷なケツ持ちを担当したのが秀吉。恐らくこの中には秀長もいたのではないかと考えられている。なんとか生還した秀吉は信長から信頼を得る。
1573: 浅井家滅亡 → 秀吉、長浜城主に
浅井家の家臣を秀吉は登用していく。その中の家臣の子供が後に日本美術史で活躍する狩野山楽であった。狩野山楽はその後、秀吉の取り計らいで狩野派史上、最高の天才と言われた狩野永徳に弟子入りし頭角を発揮する。
1574: 秀長、秀吉の名代として伊勢長島一向一揆殲滅戦に参戦
秀吉が越前との備えの為、動けない為、秀長が伊勢長島一向一揆の殲滅戦の一部隊として参戦。
1577: 信長の命令で中国攻めスタート
中国地方のドン・毛利軍と織田軍の激突!担当は秀吉。
秀吉はまず前線の播磨国攻略。続いて但馬国も平定。秀吉は播磨国、秀長は但馬国を管理しながら中国地方への進出を準備するも、毛利軍の調略が続き播磨、但馬各地で反乱や謀反が勃発。代表的なものは三木城と有岡城。これに便乗して毛利も援軍で攻めてくるのでテンヤワンヤ状態で苦戦する。
ちなみに有岡城で信長に謀反を起こした荒木村重は最終的に一族や家臣を捨てて毛利方へ単身逃亡した為、残された一族、家臣らはほぼ残虐な皆殺しにあった。その中で唯一逃がされた当時2歳だった荒木村重の息子が後の日本美術史で活躍する岩佐又兵衛だった。(だいぶトラウマを抱えた画風なのはこれが影響しているのではないかとも考えられている)
なんとかかんとか播磨国と但馬国を平定し、秀吉は播磨、秀長は但馬を管理し、後の中国攻めの準備を進めていく。但馬の生野銀山ゲット。(銀の産出量は日本第二位)
1581: 秀吉 with 秀長、因幡・鳥取城を兵糧攻めで攻略
1582: 秀吉 with 秀長、備中・高松城を水攻めで攻略
第2章 信長から秀吉へ
1582: 本能寺の変→中国大返し→山崎の戦い
1582年、本能寺の変にて織田信長自刃。その一報を明智光秀から毛利方へ放たれた密使を捕らえた事により秀吉は知ったらしい。万が一を考え、高松城主の切腹で城兵の命を助けるという条件で毛利方との和平を即断即決。その和平の証として贈られたのが狩野永徳の唐獅子図屏風と伝わる。
かくして秀吉は明智光秀を打つべく全軍撤退で全力で京都まで約200kmを8日間で移動。これが俗にいう「中国大返し」。信長が討たれたとすれば後継者争いは必至。その後の勢力争いの為にも弔い合戦を信長の他の四皇(柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀)に先を越される訳にはいかなかった。
秀吉軍と明智光秀軍は京都の山崎で激突し、秀吉軍が勝利。これにより秀吉の発言権が強め、信長の嫡孫の三法師を後継者に推すが信長の次男、三男の不満と四皇の勢力争いも絡みやっぱり揉める。
1583: 賤ケ岳の戦いで柴田勝家撃破
ついに秀吉、柴田勝家と激突し勝利。その流れの中で信長三男も自害。
1584: 小牧・長久手の戦い
信長次男が徳川家康を頼って秀吉軍と激突!
秀吉の甥っ子・秀次が家康にボコボコにされる。家康強し!秀吉軍ピンチ!
作戦変更。家康は置いておいて信長次男を狙う。
秀吉が信長次男を追い詰め、信長次男が家康を裏切って秀吉と単独講和しちゃう(簡単に言うと軍門に下っちゃった)。信長次男が軍門に下っちゃったので徳川家康は戦う大義名分がなくなったので終了。
ボコられた甥っ子秀次は秀吉に大目玉を食らう。その後、甥っ子秀次が再び重用されていく過程では、
秀長が裏でフォローしていたのではないかとも考えられている。
この小牧・長久手の戦いにより秀吉が実質的に旧織田家家臣団の頂点となる。
第3章 秀吉天下への懐刀
1585: 紀州攻め
畿内に残る敵対勢力・根来衆(真言宗十八本山の一つ、根来寺の僧兵集団)、雑賀衆(地侍集団)の討伐。
秀長が副将兼先陣の実質総大将で見事平定(水攻めも使う)。秀長の武の部分が光る功績。
これにより秀長は紀伊・和泉両国の統治を任される。
1585: 四国攻め
群雄割拠していた四国をほぼまとめ上げた四国の雄・長曾我部元親との決戦に総大将として秀長が挑む。苦戦を強いられ、秀吉からの援軍の申し出が来るが断り、最後まで秀長の総指揮で平定させる。秀長の武の最も輝いた戦と言える。
1585: 秀吉、関白になる
秀吉が公家の最高位である関白になる。このお礼に秀吉は御所で茶会を開き天皇をもてなした。御所で武士が天皇を茶会でもてなすのは前代未聞。そこで用いられたのが有名な組み立て式の黄金の茶室。
1585: 秀長、100万石の領主へ
秀長、紀伊・和泉両国に加え、大和国と伊賀国の一部も付与され、100万石オーバーの大大名となる。
秀長は大和国の郡山城を居城として内政に励む。秀長の政治力が光る。
- ・大和国の強い寺社勢力を弱める為に検地、刀狩りの徹底。
- ・郡山城下の商業推進
- ・良質な陶土を利用した陶器「赤膚焼」の発明(諸説有)などで新たな産業開発
検地はただの農地調査にあらず
検地により、それまで力を持っていた寺社が独自ルールで地元民から徴収していた年貢の納め先を大名に変更させた。今まで「俺たちのシマ」だと思って好き勝手やっていた寺社からすれば、「今日からここは秀長様の土地やから、お前らはただのテナント(住人)な」と言い渡されたようなもの。
1586: 秀長、No. 2へ
この頃になると関白にもなった秀吉に各有力大名が上洛して挨拶をしにくる機会が増える。その接待、調整役として持ち前のコミュ力を遺憾なく発揮して秀吉とのクッション役となったのが秀長。
「オフィシャルの相談は秀長へ、プライベートの相談は千利休へ」と言われるくらい名実ともに秀吉の懐刀としてNo. 2のポジションを確固たるものとしていた。
1587: 九州平定
西の最後の抵抗勢力・島津氏を討伐しに秀吉と秀長が九州を東西2ルートに分かれて挟み撃ち進軍。圧倒的兵力で九州を平定。
1587: 秀長、大和大納言へ
秀長、徳川家康と共に従二位権大納言へ昇進。信長次男も正二位に昇進。武家の中では関白の秀吉、信長次男に次ぎ、家康と同じく3位になる。「大和大納言」と呼ばれるようになる。
第4章 豊臣家、滅亡への道
1589: 鶴松誕生
秀吉の側室・淀殿(茶々)が鶴松を出産。世継ぎが生まれた事で秀吉は大変喜んだ。
1589: 秀長、病悪化
1585年頃より始まっていた秀長の体調不良が大幅に悪化。
1590: 秀吉、小田原攻めスタート
天下統一まで残るは関東一円に影響力を持つ相模国小田原城を居城とする北条氏と東北の諸大名のみという事で秀吉、小田原攻めを開始。秀長は病の為、留守を任される。
小田原城陥落後、秀吉の帰還を秀長が迎える。
1591: 秀長、没
病の悪化で大和郡山城で没。享年52歳。葬儀の参列者は親族や諸大名、大和国各寺院の僧侶に加え、一般庶民も多く駆け付け、参列者の数は20万人にも及んだという。
当時の有名なお坊さんが残した秀長の評価に「威ありて猛からず、靄然として仁有り」という言葉がある。これは「威厳は備えているが、荒々しくはない。おだやかで包み込むような雰囲気があり、そこに仁徳が感じられる」という意味。
まさに秀吉の出世を一番近くで陰から支えていた偉大なるNo. 2の早すぎる死であった。
1591: 利休、切腹
秀長の死を堺に、秀吉の政治は迷走し始める。最初の衝撃的な事件は秀長の死の約1ヶ月後、茶道界のスーパースター・千利休が秀吉の怒りを買い、切腹する。
理由や背景は様々あると考えられているが、秀吉の公私共々の相談役が相次いで亡くなった事による人々の不安は計り知れないものがあった事が容易に想像できる。
1591: 鶴松、没
世継ぎとして喜ばれた鶴松が秀長没後の約半年後に亡くなる。この鶴松の菩提を弔う為に建てられたお寺の障壁画を描かれたのが長谷川等伯親子の「桜図」と「楓図」の襖絵。
この鶴松の死により、甥っ子・秀次(小牧・長久手の戦いで秀吉に大目玉を食らった甥っ子)を後継者に据えるべく養子に迎え、関白職を譲る。
1592: 朝鮮出兵開始
苦戦の末、失敗。かつて秀長は強く反対していたとも伝わる。
1593: 秀頼誕生
淀殿、再び出産。世継ぎ誕生により甥っ子・秀次、微妙なポジションになる。
1595: 秀次事件勃発
世にも凄惨な事件が勃発する。この事件に関しては後世の脚色が多く、全貌は謎だらけだが事実だけ整理すると
- ・甥っ子・秀次が高野山に出家
- ・秀吉の使者が高野山へ向かう
- ・秀次が自害
- ・秀次の子女妾ら約40人近くが三条河原で処刑される
- ・秀吉から秀次に譲渡されていた聚楽第が破却される
公家の頂点である現役の関白が自害というあってはならない異常事態に日本全土が震撼した事が想像できる。真相はわからないままだが、処刑された約40人たちの亡骸は、一箇所に葬られ、築かれた塚が俗に「畜生塚」と呼ばれ、その処刑された人たちの無念さを描いたのが甲斐荘楠音の未完の大作と呼ばれる「畜生塚」である。
1597: 朝鮮出兵、再び
またもや失敗。
1598: 醍醐の花見
1598: 秀吉、没
秀長の死の約7年後、秀吉は豊臣家と秀頼の行く末を案じながら没する。
その後は関ケ原、大坂の陣により、豊臣家は滅亡し、長きにわたる徳川の時代へと移っていく。
もし、秀長があと10年生きていれば、豊臣の天下は盤石な物になっていたであろうと多くの研究家が言う通り、それほど秀長の存在は絶大であった。まさに史上最強のNo. 2であったのだ。