激動の戦国を生き抜いた「京狩野」の祖と異端の天才―狩野山楽・山雪の生涯

桃山時代の豪華絢爛な美学。それを捨て去り、スマートな「余白の美」で天下を席巻した江戸の狩野探幽。 一方で、桃山時代の豪華絢爛な画風を受け継ぎながら、徳川の世となっても京都に留まり、独自の画系を紡いだ「京狩野」。 その礎を築いた狩野山楽と、その娘婿であり「奇想の系譜」にも名を連ねる狩野山雪。日本美術史において再評価の熱が高まっているこの二人の絵師は、数奇な運命と苦難に満ちた生涯を送りました。

今回はそんな彼らのドラマチックな人生を紐解きます。

狩野山楽 (1559-1635) ―― 「永徳を継ぐ者」

狩野山楽は、狩野派の正統な血筋ではなく、戦国武将の家臣の子として生まれました。彼の人生は主家の滅亡と天下人の変遷という時代の荒波に翻弄され続けました。

浅井家の滅亡と秀吉との出会い


1559年、山楽は近江国(現在の滋賀県)に生まれました。父は浅井長政に仕える家臣であり、山楽自身も浅井家の家臣の子として育ちます。しかし1573年、織田信長によって浅井家が滅ぼされると、父と共に路頭に迷うことになります。 その後、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の小姓として拾われたことが転機となります。秀吉が山楽の絵の才能を見出し、当時狩野派の棟梁であった狩野永徳のもとへ入門させたのです。16歳頃のことでした。

「永徳を継ぐ者」としての台頭


山楽は永徳のもとでめきめきと頭角を現します。1580年代後半には、病を得た永徳に代わって東福寺法堂天井「雲竜図」を完成させるなど、「永徳の豪壮な画風を最も色濃く受け継ぐ後継者」として見なされるようになりました。 豊臣家や淀殿からの寵愛を受け、まさに全盛期を迎えます。

豊臣滅亡と「京狩野」の萌芽


しかし、その栄光は長くは続きませんでした。1600年の関ヶ原の戦い、そして1615年の大坂夏の陣により豊臣家が滅亡。豊臣恩顧の画家であった山楽は、徳川方から残党としての嫌疑をかけられ、残党狩りの対象となり一時身を隠すことになりました。この危機を救ったのは、当時の文化人である松花堂昭乗や公家の九条家などの尽力でした。

助命された山楽は、活動拠点を江戸へ移した探幽らとは異なり、京都に留まり続けました。彼が守り抜いたこの画系が、後に「京狩野」と呼ばれるようになります。 徳川の世となり、画壇の主流は軽妙で淡白な江戸狩野派スタイルへと移り変わっていましたが、山楽は飽くまで師・永徳から受け継いだ「力強い桃山の美」を描き続けました。九条家などの庇護のもとで活動を続け、晩年には妙心寺天球院の障壁画(1631年)を完成させるなど、苦難を乗り越えて最期まで筆を振るい続け、1635年にこの世を去りました。

狩野山雪 (1590-1651) ―― コンプレックスと「偏屈」が生んだ幾何学の迷宮

山楽の娘婿として京狩野を継いだのが、二代目の狩野山雪です。 1970年、美術史家の辻惟雄氏による著書『奇想の系譜』で取り上げられたことをきっかけに、伊藤若冲らと並ぶ「奇想の画家」として再評価されています。

父の死と山楽への弟子入り


山雪は1590年、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)に生まれました。父に従って大坂へ移り住みますが、1605年、山雪が16歳の時に父が死去し、身寄りをなくしてしまいます。 この時、山雪の画才を見抜いていた叔父(僧侶であったと伝わります)が、当時豊臣家の絵師であった狩野山楽に懇願し、弟子入りを果たしました。

孤高の学者肌


山雪は、人付き合いよりも制作と読書に没頭する、孤高の学者肌の絵師だったと伝えられています。江戸狩野への対抗意識からか、定規で引いたような幾何学的な構成や、理屈に基づいた執拗な描き込みを追求し、その独自の画風は「幾何学の迷宮」とも評されています。

鬱屈した想いが生んだ「幾何学的な狂気」


そんな孤独な環境の中で、山雪は江戸狩野への強い対抗意識、あるいは鬱屈したコンプレックスを募らせていったと考えられています。 彼は江戸狩野への対抗心からか、定規で引いたような幾何学的な構成や、理屈に基づいた執拗な描き込みを追求。その独自の画風は「幾何学の迷宮」とも呼べるような、冷徹で妖しい美しさを放ち始めます。

充実の時と、絵師としての栄誉


1635年に義父・山楽が没した後、山雪は京狩野の棟梁として目覚ましい活躍を見せます。

  • 1637年:清水寺「繋馬図絵馬」 巨大な絵馬で、黒い駿馬が前脚を勢いよく上げる姿を描いています。年記のある山雪の作品が少ないことから、貴重な基準作の一つとして評価されています。
  • 1647年:泉涌寺「雲龍図(蟠龍図)」 天井に描かれた巨大な龍は、「鳴き龍」として知られる傑作。
  • 同年:妙心寺塔頭・天祥院「老梅図襖」 画面を幾何学的にのたうち回る梅の造形は、山雪様式の到達点とも言えます。
  • 同年:東福寺「三十三身観音図」の補作 中世の巨匠・明兆の代表作の欠損部分を見事に補完。

この頃、山雪は僧位である「法橋(ほっきょう)」の位も授かり、名実ともに京都画壇の重鎮となっていました。「これから京狩野はさらに隆盛する」――誰もがそう思った矢先のことでした。

絶頂期での投獄、そして無念の死


1649年(慶安2年)、60歳を目前にした山雪の人生は暗転します。義弟・狩野伊織(山楽の次男)が起こした金銭トラブルに巻き込まれ、突如として逮捕・投獄されてしまったのです。 法橋として脂の乗り切っていた時期に、絵筆を奪われ、冷たい牢獄に繋がれる屈辱。

約2年後、九条家の尽力によりようやく出獄を果たしますが、高齢での獄中生活は彼の心身を蝕んでいました。 釈放から間もない1651年(慶安4年)、山雪は62歳で死去。これからさらに多くの傑作を生み出せるはずだった晩年を奪われた彼の最期は、まさに無念の一語に尽きます。

まとめ:再評価される京狩野の至宝

徳川の世にあって、敗者である桃山の美学を守り抜いた狩野山楽と、その精神を独自の知的狂気へと昇華させた狩野山雪。 歴史の影に埋もれがちだったこの二人の作品は、2025年の東京国立博物館「旧嵯峨御所 大覚寺展」や、2026年の大阪市立美術館「妙心寺 禅の継承」展など、大規模な展覧会を通じて新たな光が当てられています。

彼らの描く襖絵や屏風の前に立つとき、そこには単なる絵画ではない、激動の時代を生き抜いた絵師たちの「魂の叫び」が聞こえてくるかもしれません。

 

 

CEO Message

あなたと掛軸との懸け橋になりたい


掛軸は主人が来客に対して季節や行事などに応じて最も相応しいものを飾り、おもてなしをする為の道具です。ゲストは飾られている掛軸を見て主人のおもてなしの気持ちを察して心を動かす。決して直接的な言葉や趣向ではなく、日本人らしく静かにさりげなく相手に対しておもてなしのメッセージをおくり、心をかよわせる日本の伝統文化です。

その場に最もふさわしい芸術品を飾り、凛とした空間をつくりあげる事に美を見出す・・・この独特な文化は世界でも日本だけです。

日本人が誇るべき美意識が詰まった掛軸の文化をこれからも後世に伝えていきたいと我々は考えています。



代表取締役社長
野村 辰二

(ESC もしくは閉じるボタンで閉じます)
会社概要

会社概要

商号
株式会社野村美術
代表取締役
野村辰二
本社
〒655-0021
兵庫県神戸市垂水区馬場通7-23
TEL
078-709-6688
FAX
078-705-0172
創業
1973年
設立
1992年
資本金
1,000万円

事業内容

  • 掛軸製造全国卸販売
  • 日本画・洋画・各種額縁の全国販売
  • 掛軸表装・額装の全国対応
  • 芸術家の育成と、それに伴うマネージメント
  • 宣伝広告業務
syaoku.jpg(120220 byte)
(ESC もしくは閉じるボタンで閉じます)