ニュース/ブログ
岡倉天心 まとめ | 近代日本画最重要人物
日本の美術史、特に近代日本画の歴史を語る上で避けては通る事が出来ない超重要人物が「 岡倉天心 」。
主な特徴としては以下の4点が挙げられます。(もちろん他にも山ほどありますが、ざっくりと)
- ・東京美術学校の設立に尽力し、実質的には初代校長を務めた。
- ・現代の文化財保護法の礎を作った。
- ・現代日本画壇の双璧の一つである日本美術院の創始者。
- ・世界に認められた初めての東洋美術思想家。
近代日本画壇においてこれだけの功績をあげているにも関わらず、知名度はいまいち知られていません。
今回はそんな岡倉天心についてご紹介させていただきます。(かなり長いです)
この記事を読むよりサクッと聞き流したいという方は末尾にある動画をご利用ください。(それでも3時間近くありますが…。どんだけ喋んねん)
目次
- 幼少期~アーネスト・フェノロサとの出会い
- 日本美術の復興→東京美術学校時代
- 美術学校騒動→日本美術院設立→前途多難な船出
- インド視察
- アメリカ
- 五浦時代→文展
- ボストン美術館勤務時代
- 岡倉天心 動画解説
- 岡倉天心 その①: 近代日本画、日本美術史の最重要人物 / 日本美術院(院展)創始者、東京美術学校初代校長、ボストン美術館東洋美術部長、横山大観、菱田春草の育ての親。
- 岡倉天心 その②: アーネスト・フェノロサとの運命的な出会い、美術真説、奈良古社寺美術品調査、東京美術学校開校、天心の日本画観、中国美術品視察
- 岡倉天心 その③: 美術学校騒動、日本美術院設立、朦朧体への挑戦、インドへの旅立ち、ビベカーナンダ、タゴールとの出会い、東洋の理想、アジアの覚醒
- 岡倉天心 その④: ボストン美術館整理、ビゲロ―の紹介、横山大観・菱田春草全米デビュー、セントルイス万博講演、日本の覚醒、黄禍論と白禍論、茶の本
- 岡倉天心 その⑤: 日本美術院の五浦時代、横山大観・菱田春草の大困窮、文展開催、橋本雅邦の存在、ボストン美術館勤務
- 参考資料
レジュメ
幼少期~アーネスト・フェノロサとの出会い
フェノロサとの出会いまで
岡倉天心は1863年、横浜に生まれます。幕末の時期ですね。本名は岡倉覚三(かくぞう)。幼名は岡倉角蔵。
父親は福井藩の藩士でしたが当時ペリーが来て開港した横浜港は貿易が盛んだった為、商売がしたい福井藩は商売上手な岡倉天心の父親に横浜で商売をするように命じます。
そこで生まれたのが岡倉天心。
外国人が行き交う横浜で過ごす事で幼き頃より英語を習得していきます。また、英語塾などにも通い英語力をメキメキと上達させていきます。(今後の天心の活動の中でこの英語力が大いに役立ちます。)
その後、家庭の事情により一時お寺に預けられます。ここで東洋の学問を勉強しました。(元々小さい頃から勉強熱心だったんですね。)
その後、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学し、英語力にさらに磨きをかけ、1875年に東京開成学校に入学します。
この東京開成学校というのは今の東大になります。(と、と、と、東大!!元々地頭良かったんですね。)
この東京開成学校で天心は後の運命を大きく左右する人物と出会います。
それが当時お雇い外国人として来日していたアーネスト・フェノロサ。
フェノロサとの二人三脚スタート
アーネスト・フェノロサは日本の美術品収集に興味を抱き、収集した美術品の英訳を英語が出来る生徒の岡倉天心に依頼していました。この時期から岡倉天心とアーネスト・フェノロサの二人三脚は始まります。
このアーネスト・フェノロサが日本の美術で特にハマったのが狩野派。様々なツテを使い明治時代を生きる狩野派の絵師とも出会いその知識を深めていきます。あまりに熱心だったのでその狩野派の絵師から「狩野永探」なんて名前までもらったそうです。
1880年、岡倉天心は東京大学を卒業して文部省に入ります。(東大→文部省ってエリートコースですやん!)
アーネスト・フェノロサも同じく文部省に異動します。
ここから二人は当時荒廃していた日本美術の復興に尽力していく事になります。
日本美術の復興→東京美術学校時代
日本美術の大荒廃時代~復興への動き
明治初期の日本美術は大荒廃時代です。
主な原因は
- 1、画家のパトロンの消失
- 2、西洋化への偏重
- 3、廃仏毀釈
が挙げられます。ここらへんの話は以前の動画「日本絵画史のまとめ③」で詳しく解説しておりますのでそちらをご参照ください。
しかし、その一方で海外…特にヨーロッパでは日本の美術は浮世絵が大ヒット中。空前のブームで湧いていました。これを「ジャポニズム」と言います。
そんな海外での評価や日本の文化の荒廃を防ぎたいという見直し、さらには海外に日本の美術を輸出して外貨を稼ぎたいという政府の思惑などもあわさり、徐々に日本文化の見直しという流れが生まれてきます。(当時は日本は外国と不平等条約を結ばれていてお金なかったんですね。日本史で習いましたね~。だからメチャクチャ売れている日本の美術を何とか上手いことして外貨稼ぎたいという狙いがあったんですね。)
そんな中、外国人で海外の美術にも日本の美術にも詳しかったアーネスト・フェノロサの意見が徐々に影響力を持つようになっていきました。
有名なアーネスト・フェノロサの講演が「美術真説」。ここでフェノロサは日本の美術の優位性を説いて日本の芸術家たちを勇気づけました。(ただ、浮世絵と南画についてはフェノロサ結構ボロカスに言ってまして、特に南画に関してはこの講演も影響してここから随分と評価が下がるという残念な影響もありました( ノД`)シクシク…。この南画の復興は後に岡倉天心や他の画家によって行われる事になります。)
こうして、徐々に発言権を得るようになったフェノロサと天心は文部省から奈良の古美術品調査の指令を受けます。
当時、日本の神社仏閣に眠っているお宝というのは正確に国は把握してませんでした。明治の前の江戸時代には別に今でいう博物館とか美術館みたいなものもなかったですし徳川幕府も一括でそれらを管理するという事はしていなかったので、明治時代になって初めて「日本国のお宝」という意識になったんですね。
海外では国の美術品というのは政府が管理をしてきちんとメンテナンスをして多くの人にも見られるようにして後世まできちんと受け継いでいくというシステムがあったのですが当時の日本にはそれがなかった・・・というか廃仏毀釈でお宝が壊されたり超安値で売りに出されたりしていたのでフェノロサは「これはまずい」と感じ、きちんと国が日本のお宝を管理する必要があると政府に提言しました。それを受けての政府からの指令だったんですね。
この調査によって奈良の寺院などに眠るお宝をきちんとリスト化していきました。その後、そのリストを元に第二、第三の調査が行われるようになり法律も整備されていき現代の「文化財保護法」にまでつながりました。「国宝」とか「重要文化財」とかいう奴ですね。大切な国の美術品はきちんと国が管理してメンテナンスや保管、展示などを予算を取って行うという仕組みの一番初めを岡倉天心とフェノロサが行ったという事になります。(スゲ~!)
欧米視察~東京美術学校
こうして日本の美術復興の機運が高まるのを背景に、いよいよ美術学校設立が現実味を帯びてきました。
当時は国立の美術学校(今でいう芸大のようなもの)というのは無く
「これからの新しい日本の美術を生み出していくのに新しいアーティストを育てる学校が必要になるね」
という考えから美術学校の必要性が出てきたのですが、誰もそんなもの作った事がないのでノウハウがありませんでした。そこでお勉強の為に、天心とフェノロサは欧米視察へと派遣されました。(1886年~1887年 / 明治19年~20年)
天心はここでオーストリアにいるローレンツ・フォン・シュタインを訪ねます。
このローレンツ・フォン・シュタインは日本の初代総理大臣・伊藤博文に憲法などを教えた人。行政などの知識に明るかった人なんですね。ここで天心は自身の「日本美術改造計画」について相談しました。
ローレンツ・フォン・シュタインからは日本美術改造には30年から60年はかかるので長期スパンで物事を組み立てないといけない的なありがた~いお言葉を天心は頂戴したと言います。
天心は「絵筆を持たない芸術家」とも言われるように、日本芸術へ多くの貢献をした人物ですが自身は芸術家としてのフィールドには立たず後進を育てる黒子役に徹しましたがこのローレンツ・フォン・シュタインの言葉が影響しているのかもしれませんね。自身が芸術家として活動するよりも、その後も続く芸術家育成の仕組みを作る事の方が大切だと考えたのではないでしょうか。
色々あった視察旅行ですが、ジャポニズムで湧くヨーロッパでの視察を終えて天心の日本美術の可能性への想いはより強くなりその事を政府に報告します。
紆余曲折、スッタモンダがありましたが天心の鬼のような働きでついに念願の東京美術学校が1889年(明治22年)に開校する事になりました。
1890年(明治23年)に初代校長に岡倉天心、副校長にフェノロサが就く形となり、ここから新しい日本の美術改造計画は勢いを増していきます。
この東京美術学校第一期生に今後の日本画壇で活躍し、「近代日本画壇の巨匠」と言われる横山大観が入学してきます。同期にはその後大観と活動を共にする下村観山もいました。一学年後輩には「早世の天才」と言われる菱田春草もいました。その他にも今後の日本画壇で活躍していく画家の多くがこの東京美術学校に入学してきて画技の研鑽に励みました。
岡倉天心 の日本画観
天心はこの美校時代、かなり革新的な授業を行いました。(フェノロサは狩野派に基づいた基礎トレーニングをメインに指導したらしいですが、結構これは不評だったらしいです( ノД`)シクシク…。生徒の技量がバラバラだったので上級者にも初歩的なトレーニングをさせる形となってしまったのが不平の原因だったようです。)
天心の日本画観に関しては
「いたずらに古人を模倣すれば必ず亡ぶ。系統を守りて進み、従来のものを研究して、一歩を進めんことを勉むべし。西洋画、宜しく参考すべし。然れども、自ら主となり進歩せんことを。」
「模倣は芸術の敵、創造こそ芸術の命」
「人の型に入るなかれ、自分の影を踏むなかれ」
といった言葉に集約されていると思います。常にイノベーションを起こす為には自己に忠実に想像していく事が大切であると考えていました。
念願の中国調査
天心は1893年~1894年(明治26年~27年)に中国視察を行います。日本は古来より中国から様々な文化を吸収してきました。遣隋使や遣唐使ってありましたね。平安時代は一時閉じて自国の文化の熟成が起こり「大和絵」が生まれましたが、その後も再び中国から宋元文化を吸収し水墨画や禅宗などが入ってきました。
こんな日本の美術に大きな影響を与えてきた中国に天心が興味を示さないはずもなく中国視察に向かいました。結構徹底的に調査しまくったようです。
天心のこの中国視察での所感は以下の通り。
・中国は日本よりもどっちかというと西洋に似ている。まるでローマに居た時の光景のようだ。(天心は欧米視察に行っていましたね。)これはやはり中国と西洋がシルクロードを通じて陸続きである事が影響していると言える。今は西洋側から東洋に与えた影響のみが学問研究で重んじられるが、その逆のアジアから西洋に与えた影響を東洋視点から考察するのも今後の学問研究では必要。
→中国と日本の共通項を感じると共に東洋という枠組みを徐々に意識し始める。その中で西洋偏重傾向の世界の風潮に疑問を持ち始める。
・中国は西洋的であり、日本の美術はやはり独特な文化である。もちろん中国の影響はあるがそれを独自に発展させているのを確認出来た。(掛軸を掛け替えておもてなしをするという文化もそうですし茶道とかもそうですね。)ある種独特な文化や美意識が日本にはある。この原因はやはり海が陸を隔ているからと言えるのと元々日本人には伝わった美術を変革するだけの美意識が備わっている民族であったからだ。
→日本人という事への誇りを持つようになっていくと同時に今後の日本美術の可能性を大いに感じる。
美術学校騒動→日本美術院設立→前途多難な船出
美術学校騒動
順風満帆に見えた天心ですが、1898年(明治31年)にトラブルが生じます。それが有名な「美術学校騒動」。
岡倉天心は交渉力に長けていて政治力も駆使して様々な改革を行った人物なのですが、強引な部分も結構あり軋轢が多く敵も多かったようです。
そんな敵からしたらいつか天心を失脚させてやろうと狙っていてもおかしくないですよね。そして天心は…残念ながら隙も多かった。(ディフェンスもしっかりして!!)
ある日、怪文書が美術関係各所に出回る。その内容は以下。
いまの東京美術学校は世間の皆さまや多くの美術家が唱える学説を無視して狂気的な思想を持って生徒を洗脳し、得体の知れない奇妙な作品ばかりを製作させ混迷を極めている。その最も大きな原因は校長の岡倉天心だ。あいつは普段は人当たりの良いように取り繕っているが一皮向けば精神異常者で人様の奥様を強姦するような輩で美術学校の校長として全くふさわしくない。このままでは美術学校は滅んでしまう
こんな内容の怪文書が政界や美術業界、報道関係から学生父兄にまで郵送され、これが美術学校騒動の発端となりました。(もうね、大炎上ですよ。皆さんこんな誹謗中傷の内容がこんだけ広範囲にばらまかれたらどうします?しかもDMですよ、DM。直宛やから開封率もめっちゃ高いですよ。これはなかなかの強烈な攻撃ですよね。嘘が混じっていると頭でわかっていてもやっぱり心理的に動揺しますよね。)
しかし岡倉天心も痛い所をつかれていて本当の事も少し混じっていました。強姦ではないですが、当時岡倉天心のパトロン的な存在で政財界でブイブイ言わせていた九鬼隆一という人物の奥さんと天心は不倫をしていたんですね。だから微妙に痛い所をつかれたので反論しようにも微妙な空気になってしまいました。
かくしてこの怪文書がばらまかれて現場は大混乱。文部省から天心は解雇を命じられる。(相当無念だったらしい。)
ただこの文部省の措置に教員はブチ切れ。まぁそらそうですわね。天心の事もそうですけど美術学校そのものを否定されているような文書ですから。橋本雅邦をはじめとする34名、これは黒田清輝らの西洋画科を除くほぼ全ての教師が一斉辞職を決議しました。もう現場大混乱で麻痺状態になりました。
これを収めようと文部省は懲戒処分をちらつかせるなどして懐柔を図る切り崩し作戦を行い、天心と共に辞職する派と残る派に分かれます。辞職する派は17名。橋本雅邦、川崎千虎(ちとら)、西郷孤月、横山大観、寺崎広業、小堀鞆音(ともと)、下村観山、菱田春草など。(後のビッグネームばっかやん!個人的には西郷孤月はもっとこの後、頑張ってほしかった(´;ω;`)ウッ…)
この一連の辞職について橋本雅邦は次のように語っている。
「岡倉さんはなかなか自分の苦労を人に向かって話す人ではないが、美術学校の創業時代の彼の尽力は並々ならぬものがありました。文部省からは学校への資金が極めて少なく、なかなかやりきれない難局を彼はうまく切って廻られた。彼でなかったら誰がここまで首尾よくいまの美校を作る事が出来たというのか。我々は彼の献身的な尽力を目撃し、その熱意に感動して彼に惚れこみました。共に歩むのは当然です。」
これはおそらく一緒に辞職した多くの教員の心中を表した言葉であったと考えられます。天心の日本の美術を生まれ変わらせたいという熱意は周りにもしっかりと伝わっていたと言えます。(感動やん!!)
この辞職したメンバーを中心に天心は日本美術の新たな創造を目指す「日本美術院」を設立し、これが現代の再興院展と呼ばれる展覧会を開催している団体である「日本美術院」の始まりです。日展と院展の歴史については過去の講義でやりましたので良かったらそちらもご覧ください。
朦朧体への挑戦→日本美術院に歪み
在野の団体として日本美術院をスタートさせた岡倉天心はさらに革新的な挑戦を進めていきます。それが「朦朧体 (もうろうたい)」と呼ばれる画法。これは主に横山大観と菱田春草を中心に行っていく挑戦になるのですが天心の「空気を描く方法はないか?」という二人の問いかけからスタートしたと言われています。
これは日本画の特徴であり、洋画と日本画を分ける生命線のような存在である線を無くして対象を表現しようという実験でした。(日本画にとって「線」の存在ってとっても大切だったんです。狩野派とかはその典型。筆の勢いってよく言うじゃないですか。ざっくりとしたイメージですけど油絵とかの西洋画は「塗る (painting)」に対して日本画は「描く(drawing)」というような感覚かな…。微妙な違いですけど画家さんにとってはとっても大切な事だったんです。)
しかし、この朦朧体は画壇では全く評価されませんでした。日本画の購買層や支持者、さらには画壇も含めて保守の人が多かったんですね。新しすぎるモノを受け入れられないのがあったんですね。全く評価されないという事は全く売れなかったという事なので、日本美術院のエース的存在だった横山大観と菱田春草が全く稼がないという残念な状態だったので日本美術院の経営状況は悪化しました。(野球で言うエースピッチャ―全く抑えず、4番バッター全く打たずみたいな。。。「あかんやんっ!」みたいな感じです。)
この経営悪化で不満が日本美術院の中でたまる中、構成員のイズム(理想の表現)の違いも当然出てきます。
芸術家というのは自分の理想を追い求めるモノなので当然どこかで我が強くなくては生き残ってはいけません。(昔は職業画家みたいな存在も生きていけたんですけどね。)
己の主義主張は日本美術院の中でも出てくるようになり、それが日本美術院の空気に合わないと脱退する人も出てきてしまいます。なかなか困難な船出だったんですね。
こうした日本美術院のゴタゴタの中、天心がとった次の行動が「インドへ行く」でした。(マジすか!? 逃避行??)
インド視察
天心は1901年-1902年(明治34-35年)にインドへ向かいます。きっかけは当時世界的に有名だったヒンドゥー教徒であるビベカーナンダの事を共通の知人から聞いていた為。インドの思想に共通項を感じるようになり、会ってみたいと感じるようになったようです。天心からするとここでインドにも日本に通じる共通思想が見つけられれば日本、中国、インドをまとめた一つの東洋的な思想というのが見つかるのではないかと考えたんだと思います。
天心は中国にも美校時代に行っていて「東洋」という枠組みに敏感になっていました。そもそも仏教の大元はインド。それが中国を経由して日本に来たっていう話は佛事掛の所でお話ししましたので良かったらそちらもご覧ください。
インドで上座部仏教と大乗仏教に分かれて大乗仏教が中国化されて日本に入ってきました。なので日本の美意識や文化の源流はインドにあるのではないか?という感覚が天心にはありました。江戸時代まではインドに行けた人ってほとんどいなかったんですね。お坊さんとかも仏教学びにいっても大概は中国まで。インドまでたどり着くのは非常に困難だったのでインドの情報がなかった。天心からしたらどうしても日本美術のアイデンティティを正確に知る為にもインドは外せなかったんだと思います。
インドに到着して無事にビベカーナンダとも会う事が出来、色々意見交換をした中で…めちゃくちゃ意気投合したそうです。
さらに天心はインド美術の調査も行い美術に於いても日本美術との共通項を見つける事が出来ました。これにより思想だけではなく美術に於いても我々アジアはひとつという風に考え、この大きな統一県・アジア(東洋)で西洋に対抗するべきであるという思想が天心に生まれる事になりました。
それをまとめたのが天心の英語での著書「東洋の理想 The Ideals of the East」です。「アジアはひとつ」の冒頭文がとても有名な本ですね。
【復刻版】東邦の理想?「アジアは一つ」で知られる東洋文化論 響林社文庫 新品価格 |
この本はちょっと内容難しいですが、インドに発する仏教、中国における儒教等に言及しながら、それらの宗教がいかに日本の美術と融合し発展し新たな伝統文化を生成したかを論じている本です。
当時、中国もインドも西洋諸国の植民地状態だったので両国にシンパシーを感じている天心からすると同胞・兄弟が食い物にされているように感じ、アジアでの連帯感を持って西洋諸国に対抗しなければならないという気持ちが強くあったのだと思います。
そんな中、ビベカーナンダは天心と出会った翌年に亡くなってしまします。(えっ!?登場してから亡くなるまで早くない?)
ビベカーナンダは天心に一人の知人に会うように勧めます。それがラビンドラナート・タゴール。「自分よりもこの人の方が凄いから会っとけ」的な感じで勧めたらしいですがこのタゴールは、インドの詩人 、思想家、作曲家であり、後にノーベル文学賞を受賞するような人物。(えっ!?そんな人紹介してもらえるなんてすごくない?そんな重要人物次々にインドへ行って出会えるもんなん?「ワンピース」みたいな展開やな。)
天心はタゴールとも意気投合し、どっぷりインドにハマっていってしまいます。
あまりにハマり過ぎて…インドの革命軍に何故か参加する事になりました。(何してんねん!!)
このビベカーナンダもタゴールもインドの革命軍のリーダー的存在でした。当時はイギリスに植民地にされていたインドですがやはり独立に向けての動きというのがあったんですね。そのリーダー達に天心はカリスマ性を買われて引き入れられるようになったそうです。
後々に現地で色々な資料が出てくる中で、この革命軍の秘密会合のような物に「日本人のオカクラという者も参加していた」という内容が出てくるという…(せめて偽名使って!!!)
このアジアの独立に燃えていた天心が書いていた本というのが「東洋の覚醒」。この内容…めちゃくちゃインド人に革命を煽っています。(天心の生きている間に公には発表されなかったらしい)
ざっくりとした内容が以下。
アジアの兄弟姉妹達よ!
おびただしい苦痛が我々の祖先のこの国を覆っているぞ!我々はすっかり西洋人に舐められてしまっている。商業という名において我々は攻め込まれ、文明の名において帝国主義者は擁護され、キリスト教の名において無慈悲に平伏している。
アジアの兄弟姉妹達よ!
我々は長く悪夢を見てきた。もう一度現実に目覚めようではないか。西洋人のやましい心は我々の事を野蛮な存在(黄禍)のように仕立て上げようとしてくるが我々は冷静な目で西洋人の野蛮さ(白禍)を見つめてやろうではないか。私は諸君に暴力をではなく男らしさを呼びかけているのである。攻撃ではなく自覚を呼びかけているのである。ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である。
今のインドの悲惨な現状を見てみよ!過去の誇りは見る影もない状態である。だが希望はある。我々がもう一度自分達に自由を取り戻す魂に火を灯したならばその炎はやがて国中の同志に移り大きな炎となっていくであろう。いかなる鉄の城壁であろうと我々のこの熱い魂の行動を止める事は出来ないであろう!
めちゃくちゃインドの同胞を煽ってハマっていた岡倉天心の血気盛んなエピソードですが、この革命軍にどっぷりハマって最後までインド独立の為に動くのかなと思いきや、ちゃんと1902年に帰国します。(帰巣本能意外に強かったんですね。。。)
アメリカ
ボストン美術館の日本美術品整理
インドから帰国した天心でしたが、その当時日本は戦争の足跡が近づいていました。日露戦争ですね。
戦争が起こるかもしれないという緊張感の中では美術品も売れず、美術業界は不況に陥っていました。さらに日本美術院も相変わらずゴタゴタが続いている中で、日本にいてもshikataganaiと言う事で天心は1904年(明治37年)にアメリカ・ボストンへ大観と春草を連れて渡米します。
この大きな目的はアメリカ有数のビッグ美術館であるボストン美術館に収蔵されている日本美術品の整理。当時、多くのアメリカ人によって日本の美術品というのは相当数収集されていました。フェノロサもそうでしたし、当時の美術館の館長であったウィリアム・スタージス・ビゲローなど他にも例を挙げると枚挙に暇がありません。(浮世絵人気とか相当すごかったそうですよ。「近代建築の三大巨匠」と呼ばれるフランク・ロイド・ライトは浮世絵の大収集家であると同時にディーラー的な動きもしてかなりの量の浮世絵を大人買いしてアメリカに持って帰ってきました。一部は美術館にも寄贈されたりとかしたそうです。)
そんなボストン美術館に山積みになっている日本の美術品ですけどきちんと整理整頓されていなかったんですね。中には内容がよくわからないなんてものも多かった。それを整理する為に岡倉天心はビゲローを訪ねます。
このビゲロ―は日本に何回か来日する中で岡倉天心とも面識があり、あの日本美術院を設立する時に相当な額を寄付していたそうです。(海外って寄付の文化凄いですよね。)
この恩に報いる為に天心はボストン美術館に奉公しに来たというわけです。(もちろんギャラはもらったようですが。。。)
ここで天心は快刀乱麻の働きで多くの美術品のデフラグを行い、現地のスタッフを恐れ慄かせたそうです。(プルプル震えていたそうです((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)
横山大観・菱田春草の個
天心と共に訪れた横山大観と菱田春草が待ち受けていたものは自身の作品展でした。
日本では酷評を受けていた朦朧体でしたが、海外ではこの二人の個展は大成功したらしいです。日本の値段の20倍くらいの値段で高い方から売れていったというから二人の衝撃は相当なものだったと考えられますね。(実はこの個展の成功は岡倉天心の中ではある程度勝算があったと言われています。相変わらずスゲーな)
大観、春草の展覧会は好評で追加公演も決定し、フランス、イギリスでも開催される運びとなったそうです。(二人ともよかったね(^_-)-☆)
セントルイス万博講演
1904年はアメリカで世界的な万国博覧会が行われました。それが「セントルイス万博」。アメリカが渾身の力を込めてぶち上げたこの万博に日本もロシアと戦争中でありながら参加します。(ちなみにロシアは参加してません。)
この世界的な万博で岡倉天心は“Modern Problem in Painting” ( 「絵画における近代の問題」 )という題で講演を行います。(えっ! 一般人なのに?)
内容を簡単にまとめると
「もっと本当の日本の美術を見てくれよ!浮世絵とか花鳥画なんてまだまだ我々日本の美術の薄皮一枚だよ。本当の日本の傑作には人生哲学や美の宗教観が西洋絵画と同様に表現されていて必ずあなた方の心を震わせるはず。もっと日本の事を知って下さい。」
的な内容で日本の美術理解を訴えたそうです。
こうした活躍やビゲロ―のプッシュにより天心の知名度はどんどん高まり、当時のアメリカの大統領であるセオドア・ルーズベルトにまで面会するようになり日本の事を色々レクチャーしたそうです。(どこまでいくねん… すげ~な!)
天心の世論工作「日本の覚醒」
天心のアメリカでの功績はまだ続きます。
当時、日露戦争真っ只中だった日本はロシアとアメリカの世論工作を競っていました。これはいずれ戦争がアメリカの仲裁によって終了する事を見越して、その条件が自国に有利に働くようにアメリカの世論を味方につけておきたかったというのが背景にあります。
ロシアはこの世論工作で自国に有利な宣伝を大々的に行います。日本も負けじと政治家・金子堅太郎を担当にして世論工作を行っていました。この金子賢太郎はセオドア・ルーズベルトと面識があった事もありそれを活かした世論工作を行っていたのですが残念ながらロシアに負けていたそうです。
何故ロシアがアメリカの世論工作に成功していたかというと当時、欧米諸国で取り上げられていた「黄禍論 (こうかろん)」という物を押し出していたからです。「東洋人が力をつけてきて西洋諸国を脅かしている。」といった内容ですね。日本は日清戦争に勝利していたのでそのやり玉のように挙げられており、この金子賢太郎はこの黄禍論に対して上手く反論できずにお茶を濁すような外交活動を行っていたのが日本の不審を招いていたんですね。
この状況を「見ちゃおれん!」という事で天心が出版した英文著書が「日本の覚醒 The Awakening of Japan」。これは体系的な最初の明治維新史とも言われ、日本人の民族意識の目覚めの過程を歴史的観点から論じたものです。
新品価格 |
天心は日本人という物をきちんと西洋諸国に知ってもらう為には、きちんと日本の歴史から紐解いて話をしなければならないと考えました。この本の内容は歴史好きにはなかなかたまらない面白い内容です。世界史の流れもちょいちょい触れながら日本の歴史を説明していき、特に江戸時代に関してかなり長い尺を取って詳しく説明しています。
徳川家康が如何に上手く我々をコントロールしたかやペリーが来航してきた時の阿部正弘の対応は実は良かったなど明治時代の人間が振り返る日本の歴史というのもなかなかに刺激的で面白いです。そしてこの内容を全て英語で発信しているという所がとてつもないなと感じる部分です。(これ多分天心相当苦労して書いたと思います。日本人同士なら共通認識でホワっとした表現でも何となく理解してもらえる事柄も海外相手だと絶対にそうはいかないのできちんと順序立てて論理的に、時には例え話なども交えながらわかりやすく説明しなければならないので岡倉天心の魂がこもった著書と言えるでしょう。)
ここで天心は日本の成り立ちや民族性を触れると共に、黄禍論に対しても反論を行っています。この本が「未知の野蛮な国」であった日本という存在を解き明かす鍵になりました。
ざっくりとした内容は以下。
我々日本のここ20年ほどの急激な発展は西洋諸国の皆さまにはさぞかし謎であったと思います。我々が収めてきた成功は、我々の事をよく知らない事も手伝い、皆様方にとって非常に脅威に映り、多くのご批判を我々日本人は受けてまいりました。この本では皆さんが謎に思われている我々日本人というものを歴史的流れを説明しながらご紹介させていただく。
そもそも日本人がなぜここまで西洋の技術を急激に使いこなし発展したかというのは日本人が持つミカドに対するサムライの魂とも言える熱き忠誠心から生まれたものである。その国民の力があったらばこそ西洋の文明をここまで使いこなし発展するに至ったのである。
そもそも多くの東洋人は西洋の到来は必ずしも幸福ではなかった。商業の拡大の恩恵を歓迎しようとしたらいつのまにか植民地とされてしまった。キリスト教の宣教師の博愛的な目的を信じたら軍事的侵略が行われ頭を下げて降伏するより他なかった。もしあなた方が我々を黄禍と言って非難するのであれば、アジアの苦しめる魂が白禍の現実に泣き叫んでいるのはどう説明なさるおつもりでしょうか?
我々は戦争を自国を守る上で仕方なく行なっている。いつ戦争は終わるであろうか。……自己防衛の勇気と強さのない者は奴隷となるほかはない。我々の真の友はいぜんとして剣であることを思いみるのは、悲しいことである。……ヨーロッパは戦争を我らに教えた。それではいつ、彼らは平和の恵みを学ぶのであろうか。
この「日本の覚醒」により日本は大いにアメリカの世論を獲得するに至ったそうです。
茶の本
天心の活躍はまだ続きます。それが1906年(明治39年)に発刊した天心の代表的な著書である「茶の本 The Book of Tea」。
これは茶道の方法を書いているのではなく、茶道というものを通じて日本の美意識や風習、考え方などを説明した内容です。(これもめちゃくちゃ面白いので是非読んで欲しいです。)
現代語新訳 世界に誇る「日本のこころ」3大名著 ──茶の本 武士道 代表的日本人 新品価格 |
当時、日露戦争に勝利した日本という国は西洋諸国に「戦闘民族」のようにとらえられていました。それは「武士道」という物が切り取られて伝えられ日本人には「死の為の美学」があるらしいといった偏った捉えられ方です。(「日本の覚醒」で随分と誤解は解けたのですがまだまだだったんですね。)
岡倉天心はこの誤った捉えられ方に反論をしたいという事で、日本人の茶道を通じて日本人には「生きる為の美学」があるという事を伝えます。ユーモラスや西洋諸国に対する皮肉も交えながら、それでいて詩的な言葉で美しく語られるこの内容は多くの人の心に刺さり、ベストセラーになりました。アメリカだけではなくドイツ、フランス、スウェーデン、スペイン、中国などでも出版され岡倉天心の名を世界中に広めた代表作と言えるでしょう。
この本を読めば如何に岡倉天心、ひいては日本人という民族が詩情豊かな文化民族かというのが良く理解出来る内容になっています。当時日本人を野蛮な国民としてしか知らなかった西洋人にとっては相当興味深い本になったというのが容易に想像出来ます。
以上のように衝撃的な印象をアメリカに与え、天心は帰国します。(実際には「茶の本」は帰国後に発刊された本ですが説明の都合上、繰り上げてご紹介させていただきました。)
五浦時代→文展
浦島太郎の天心→日本美術院の五浦時代
海外での華々しい活躍を終えて帰国してみると岡倉天心らを待っていたのは残念な日本美術院の現状。まさに浦島太郎状態。
中心人物が海外に行ってしまう中で、求心力を失った日本美術院には誰も残っておらず休業解散状態。
天心は再起を図るべく、自分についてくるコアメンバーのみを率いて東京の谷中から茨城県の五浦(いずら)に日本美術院を移転します。
これが有名な日本美術院の「五浦時代」です。(実際は引っ越しの際は天心は中国に飛んでいたので大観に引越しの指揮を託したとかなんとか…ジャイアンやな。)
この五浦移転についてきたコアメンバーは横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山の4人。下村観山は横山大観の美校時代の同期、木村武山は残り三人の後輩になります。(下村観山と仲良かったみたいです。)
この新たな五浦時代ですが、横山大観と菱田春草にとっては相当きつい時期でした。
下村観山や木村武山は天心に従い、挑戦的な表現も行いますがどちらかというと温厚派。そこまで尖った絵に傾く事はなく一般の画壇でも受け入れられるような作品も描いていたので注文があったんですね。バランス派です。それに比べて大観と春草は海外での成功も体験しているのでより挑戦的な絵をつき進めていく事になります。なので当然、全く売れなかったそうです。極貧中の極貧。この五浦は魚が安いエリアだと言われていますが、その五浦においても魚すら買えず朝から釣りをしなければならなかったというのは有名なエピソードです。(しかも春草は乳飲み子がいたそうなのでそら大変だったと思います。がんばれ! 春草。)
苦労を重ねながらも4人は自らの画道を突き進むべく研鑽に励む修業時代がこの五浦時代です。
文展開催
そんな中、なかなか暗闇から抜け出せない日本美術院に一つの転機が訪れます。それが国の文部省主催の展覧会「文展(文部省美術展覧会)」の開催です。(1907年 明治40年)現代の日展のスタートです。
当時の文部大臣である牧野伸顕はかねてよりヨーロッパの進んだ芸術文化事情に詳しく、日本も世界の一等国として公設展示会を開催し高い芸術文化基準を育成したいと考え開催にこぎつけました。
国が主催する展覧会という事で多くの芸術家にとっては晴れの舞台となる発表の場が整った事は大いに喜ばれました。(予算もいっぱいかけられる大規模な展示会ですし、やはり御上がバックについている展示会というのは相当な権威があったようです。)
そしてこの第一回文展の審査員に岡倉天心、横山大観、下村観山も選ばれる事となり日本美術院のメンバーも今後は文展を中心に活動をしていく形となり、日本美術院の活動は事実上停止状態となりました。(まぁしゃーないよね。岡倉天心は後でご紹介しますけどこの頃から海外へ飛び回る超大忙し状態ですし。)
ただこの文展のスタートもかなりのゴタゴタがありました。文展の審査員を誰にするかから始まり、そこに岡倉天心を入れるかどうかでも揉め、第一回目は旧派系の作家のボイコットがあったかと思えば、二回目は内閣総辞職に伴う政府の審査員横槍事件による新派系作家のボイコットがあったりと波乱続きでした。
そんなトラブルの中、岡倉天心は文展の審査員を退きます。その背景にあったのがアメリカのボストン美術館からの熱烈なスカウトオファーでした。アメリカであれだけの活躍をした天心をボストン美術館が放っておくはずもなく、美術館の収蔵品拡充の為に協力して欲しいという打診が天心にありました。
天心からすると国内の小さなことでのゴタゴタよりも海外で日本の美術の事、東洋の美術の事を紹介する方が100万倍楽しかったのではないかと想像されますし、実際にその意義というのは計り知れない物があります。元々、日本の美術を海外に知ってもらい日本人の誇りを取り戻そうという考えの中スタートした天心の活動ですが、ボストン美術館のスタッフになり様々な物を収集し、それをきちんと解説、展示し、多くの海外の方に足を運んでもらい日本の理解を深めてもらえるのであればそちらの方が有意義だと感じたのではないでしょうか。
ボストン美術館勤務時代
ボストン美術館からのオファーを受ける天心ですが、若干上述の五浦時代、文展開催の時期と被っていますが分けて紹介した方が分かりやすいのでこちらでまとめて年表でご紹介します。本当に1年単位で世界を縦横無尽に動き回っている殺人的なスケジュールをこなしています。
- ・明治38年4月~9月: (1905) ボストン美術館整理後、帰国。日本で収集活動を大々的に行う。
- ・明治38年10月:(1905) 第二回ボストン勤務
- ・明治39年3月(1906)→帰国
- ・明治39年10月(1906)→第二回中国旅行(五浦移転直前)→中国美術大収集
- ・明治40年1月(1907)→帰国
- ・明治40年: 第一回文展審査員
- ・明治40年12月: 第三回ボストン勤務
- ・明治41年4月 (1908): 帰国に際して敵情視察という事でヨーロッパに向かう
- ・明治41年(1908)7月: 帰国
- ・明治42年はお休み(1909)
- ・明治43年(1910)10月: 第4回ボストン勤務、ボストン美術館の中国・日本美術部長就任を受託
- ・明治44年(1911)1月~2月: ヨーロッパへ買い出し
- ・明治44年(1911): ハーバード大学より文学修士の学位(マスターオブアーツ)を贈られる
- ・明治44年(1911)7月: 帰国
- ・明治45年(大正元年 1912)5月: 中国美術品収集の為、中国に赴く
- ・明治45年(1912)8月: インド経由ボストンへ向かう
- ・明治45年(大正元年 1912):11月: 第五回ボストン勤務
- ・大正2年 (1913) 3月: 病気の為、帰国→五浦で休養
- ・8月24日 心臓発作で病状は急変
- →少し回復したので自身のお気に入りの新潟県にある赤倉山荘という別荘に娘らと向かう
- ・9月2日、赤倉山荘にて逝去する→51才、波乱万丈の生涯を終える
これだけの激務をこなしていたので流石に体調を崩し、1913年に51歳の波乱万丈の生涯を終える形となります。
しかし天心にとってこの1905年~1913年というのは非常に充実していたのではないかと思います。まさに「世界を股にかける男」「世界の岡倉」と言える動きを行っていました。
岡倉天心は嫌な事は嫌とはっきりと断る性格であったと考えられるのでこれだけの激務はむしろ彼が望んで活動した結果だったのです。
日本の美術革新に生涯を捧げてきた岡倉天心の想いは弟子である横山大観へと引き継がれ、大観は天心が没した翌年、休眠状態であった日本美術院を下村観山と共に復活させ「再興院展」と呼ばれる展覧会を行います。これが現代にまで続く日本美術院が主催する「再興院展」です。
横山大観は再興院展を舞台に後進を育てながら大きく成長し、後に「近代日本画壇の巨匠」と呼ばれる押しも押されぬ芸術家になります。まさに岡倉イズムを引き継いだ岡倉チルドレンと言えるでしょう。
この日本美術院はその後、官展(文展、帝展、新文展、日展)とライバル関係であり続け、切磋琢磨をしながら日本の美術を率いていきます。
岡倉天心が目指した「世界に通用する日本画」が現代においてどうなっているのかという視点で毎年行われる日展、院展に足を運んでみるのも面白いかもしれませんね。
岡倉天心 動画解説
岡倉天心 その①: 近代日本画、日本美術史の最重要人物 / 日本美術院(院展)創始者、東京美術学校初代校長、ボストン美術館東洋美術部長、横山大観、菱田春草の育ての親。
岡倉天心 その②: アーネスト・フェノロサとの運命的な出会い、美術真説、奈良古社寺美術品調査、東京美術学校開校、天心の日本画観、中国美術品視察
岡倉天心 その③: 美術学校騒動、日本美術院設立、朦朧体への挑戦、インドへの旅立ち、ビベカーナンダ、タゴールとの出会い、東洋の理想、アジアの覚醒
岡倉天心 その④: ボストン美術館整理、ビゲロ―の紹介、横山大観・菱田春草全米デビュー、セントルイス万博講演、日本の覚醒、黄禍論と白禍論、茶の本
岡倉天心 その⑤: 日本美術院の五浦時代、横山大観・菱田春草の大困窮、文展開催、橋本雅邦の存在、ボストン美術館勤務
参考資料
Amazon
新品価格 |
近代日本画、産声のとき: 天心、大観、春草の挑戦 (22世紀アート) 新品価格 |
楽天
日本画とは何だったのか 近代日本画史論【電子書籍】[ 古田 亮 ] 価格:2,640円 |