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川瀬巴水 まとめ: 浮世絵の最期に深く関わった人物
川瀬巴水は近代風景版画の第一人者。
美しい日本の風景を叙情的に表現した癒しの風景画は人気が高く、近年ますますその評価を高めている。
特に日本よりも海外での人気が高く、熱狂的なコレクターも多い。
また、江戸時代から続いた浮世絵のラストジェネレーションの一人であり、浮世絵の最期に深くかかわった人物でもある。
今回は癒しの風景版画家である川瀬巴水の生涯をご紹介するとともに、浮世絵の最期に関してもご紹介させていただきます。
目次
1883: 東京・芝の糸組物職人の長男として生まれる。
家業を継げ
川瀬巴水が生まれたのは東京府芝区、現在の港区新橋。父親は糸屋兼糸組物職人。
幼いころから絵を描くのを好み、画家を志して日本画家に就いて勉強するも両親から反対されるばかり。
成人し、家業を継ぐために夢をあきらめようと思っていた頃、父の事業の失敗により転機が訪れる。(父ちゃんには悪いがチャーンス!)
ドサクサに紛れて色々あーだこーだ言って巴水は、妹に家業を任せ、画家になる為の道を再び歩み始める。
二度の告白
1908年、25歳の時、美人画の大家・鏑木清方に弟子入りを志願するも年齢を理由に洋画を勧められる。(オブラートに包んだお断りやね)
ちなみにこの鏑木清方は以前ご紹介した上村松園と共に「西の松園、東の清方」と並び称される程の人物。(とっても偉い人です)
洋画を勧められた巴水は、
「え~、 洋画っすか~…(´Д`)」
とあまり乗り気ではなかったが渋々洋画の研究会に入り、洋画を学ぶも2年で挫折。
27歳の時に再び鏑木清方に弟子入り志願する。(えぇぇ~! ハート強いなぁ! 一回振られたくせにもう一回告白しにいくの?)
清方も正直断るとまずい空気を感じたのか、根負けして弟子入りを許す。(目がヤバいとでも思ったのかもね)
晴れて、日本画の大家の元で修行をする事になり、一門が得意とした美人画や風俗画を描いていたがどうにも心が満たされない。(どういう事やねん!! 入れてもらっときながら結構わがままやな)
悶々としているそんな時、巴水の人生を大きく変える作品と出会う事となる。
1918: 木版画デビュー
渡辺庄三郎との出会い
1918年(大正7年)、34歳、同門の伊東深水の風景版画・「近江八景」を目の当たりにし
「これや! ワイがやりたかったのはこれや! 風景版画や! (‘Д’)」
という事で年下の伊東深水に
「深水、ワイこれがやりたいんや! どうしたら良い?」
と尋ねると多分面倒くさそうな印象を受けた伊東深水は、自分が木版画で世話になっている版元・渡辺庄三郎を紹介する。
ここから川瀬巴水は版画の世界に身を投じる事になる。(ちゃんと清方には事情話したかちょっと心配やわ。)
この渡辺庄三郎は以前「浮世絵の歴史」の動画でもご紹介いたしましたが、当時「新版画運動」という物を展開していた人物。動画はこちらです。
江戸時代に栄華を誇った浮世絵は明治時代になると西洋からの印刷技術に活躍の場をどんどん奪われ風前の灯火となり、大勢いた絵師や職人たちも他の仕事を探し求めるようになった。(AIが発達したら仕事を奪われてしまうみたいなイメージかな。)
浮世絵商である渡辺庄三郎は消えゆく文化の再興を願い、浮世絵をバッキバキにバージョンアップさせてリバイバルさせようと考えました。
これまでの浮世絵はどちらかというと娯楽的な作品という位置づけで肉筆で描かれた日本画がメインストリームの画壇からは一段下に見られていたのですが、それを芸術品として売り出していこうとしたんですね。その為に渡辺庄三郎は絵師が求める高いレベルの表現を実現する為に、彫師、摺師のレベルアップを図っていきました。(浮世絵は絵師、彫師、摺師の3人で製作するのが主流です。)
渡辺庄三郎は元々海外への輸出用に浮世絵の原画や復刻版を制作していた版元なので、この新しく生まれた新版画をそのルートに乗せて海外でも広く紹介した。このおかげで多くの熱狂的な新版画ファンを海外に増やしたと言える。
塩原三部作
この渡辺庄三郎とタッグを組んで川瀬巴水が製作したのが「塩原三部作」と呼ばれる「塩原おかね道」「塩原畑下り」「塩原しほがま」。(1918年、大正7年、34歳)
この三作は幼い頃によく滞在した栃木県塩原を描いた風景版画で、既に目を見張るほどの創意工夫がこらされている。
薄暗い山道と色鮮やかな夕日に染まる山とのコントラスト。
肉筆さながらの太い輪郭で表現された山肌。
山間の雨にも長い糸のような線と鋸刃のような短い線とを組み合わせて変化をつけている。
敢えてバレンの摺り跡を残して表現した土の質感。
処女作にして相当な力の入れようが感じ取れる。よほど自分が進むべき道が見つかったのが嬉しかった事がうかがえる。
このデビュー作を皮切りに、川瀬巴水は次々と意欲作を生み出していく。
風景版画家としての地位確立
1920年(大正9年)(37歳)、各地を取材した最初の連作となる「旅みやげ第一集」を完成。
川瀬巴水の風景版画を叙情豊かにしているのは圧倒的な色彩表現。様々な色の濃淡を細かく擦り重ねる事で独特の世界観を見事に表現している。
例えば下の「若狭 久出の浜(くでのはま)」は34回もの摺りを行って完成させている。
葛飾北斎の代表作である凱風快晴が7回摺りであるのと比べるといかに工程が多いかがわかる。(ちなみに凱風快晴は当時の浮世絵の中でも特に摺が少なかった作品で通常は10~20回摺が多かったようです。それでもこの作品の摺り回数は多いですね。)
1921年(大正10年)(38歳)、「東京十二題」、「旅みやげ第二集」を完成。
独自の視点で庶民の何気ない日常を切り取る事により、多くの人々の共感を得る作品を生み出すのも川瀬巴水の特徴。
特に有名な名所ではないような場所であっても川瀬巴水が描くとこのようにえも言えぬ魅力あふれる作品になる。
版画であるにも関わらず肉筆画顔負けの表現力は、かつては庶民の楽しみだった浮世絵の低いイメージを芸術品としてのイメージに変化させるのに十分であった。
かくして川瀬巴水は順調に人気を博していった。
1923: 関東大震災
失意の巴水
順調に風景版画家としての地位を確立していた川瀬巴水を絶望の淵に追いやる最悪な出来事が起こります。
それが1923年に発生した関東大震災。明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害であるこの震災により、巴水は家財はもとより書き溜めたスケッチも全て失ってしまう。
絵師にとってスケッチはアイデアの宝庫。芸人で言うネタ帳のような物。それがすべて焼失した絶望感は計り知れない。(外付けHDDにしまい込みまくっていた秘蔵ファイルが全部ぶっ飛んだ時の喪失感の1000倍くらいの悲しみを想像してください。)
失意のどん底の巴水は無気力のまま版元の渡辺庄三郎の元を訪ねる。
当然、渡辺庄三郎が営む渡辺木版画店も大きな被害を受けていたが、失意の巴水を渡辺庄三郎は
「巴水よ、無くなったものは仕方がない。くよくよ悩んでもよみがえりはしない。お前はアーティストだろ?だったら新たに生み出せ!創作できなくなったアーティストなど誰も求めていないぞ。周りを見てみろ。傷ついているのはお前だけじゃない。みんな傷ついている。そんな傷ついた人たちの心を癒してやる事がお前には出来るじゃないか。お前の風景画は人の心を癒す不思議な力があるんだ。巴水よ、新たに旅に出ろ。とにかく多くの風景を見てこい。そして新たに生み出せ。それが風景木版画家・川瀬巴水の使命だ!」
と強く励まし、ここから川瀬巴水は生涯で最長となる102日間の写生旅行に出かける。
復活の巴水
この写生旅行の経験を元に、巴水は次々の傑作を生みだしていく事となる。
「旅みやげ第三集」〔1924(大正13)-1929(昭和4)〕は旅みやげシリーズの第三弾。
以前よりも表現に深みが増し、より一層鑑賞者の心に訴えかける印象を与える作品が多くなる。
巴水は見慣れた景色が震災により一瞬にして失われる様を目の当たりにしたことにより、今存在する景色の尊さに畏敬の念を抱くようになった事が影響していると考えられる。その畏敬の念は風景が見せるその瞬間、一瞬のみの美しさ…それ以前にもなくそれ以降にもないその時限りの美しさの存在を巴水に感じさせ切り取らせた。巴水の作品がどうして人の心を打つのかの秘密はここにあると言える。
「東京二十景」〔1925(大正14)-1930(昭和5)〕は震災から復興する東京の風景を叙情的に描いた作品。
このシリーズの中で川瀬巴水を代表する作品「芝増上寺」が誕生する。幼き頃より近所で親しんだ川瀬巴水にとっては特別な場所である増上寺。美しい朱色と見事にマッチした雪の白のコントラストは大変印象深い。和傘をさしながら歩く着物姿の女性の描写は復興していく東京においても昔の情緒を感じさせる。
巴水は1930年(昭和5)に馬込町平張(現・大田区南馬込)に洋館づくりの家を建てた。
本作品はその家から徒歩20分ほどにある三本の松。(現在はない)人の描写はないが月明かりに照らされた美しい田園風景と民家から漏れるかすかな明かりに人の営みを感じる事が出来る印象深い作品。
この他にも「日本風景集 東日本篇」〔1932(昭和7)-1936(昭和11)〕など印象的な作品を生み出し、国内外の展覧会でも高い評価を得るなどこの頃は川瀬巴水の絶頂期ともいえる。
1939: 朝鮮へスケッチ旅行
昭和の一桁台あたりの作品は巴水を代表する傑作ばかりだったがその反動からかやがてマンネリなどを指摘する声が上がり、スランプの時期に入っていく。(そんなにハートは強くなかったのね…)
戦争の足音も近づく不安定な世情の中、なかなかスランプから抜け出せない巴水に転機が訪れる。
出版社からの依頼で画家仲間の池上秀畝と山川秀峰に誘われて1939年、朝鮮へスケッチ旅行に行くこととなる。
風光明媚な自然の景色と日本とは少し違う風俗に大いに刺激を受け、創作意欲を回復させ、自らの得意とするモチーフを存分に用いた「朝鮮八景」〔1940 (昭和15)〕を製作しスランプから脱する。(やはりアーティストにはインプットが大切やね。巴水はきっと朝鮮でアドレナリン出まくりの状態。)
1941-1945: 戦争
太平洋戦争の間は版画の世界も大いに影響を受けた。芸術を愛でるという精神的なゆとりも少なくなり、軍部からは表現の制限が加えられる。物資も不足する中、職人や版元などの関係者も戦地に赴く者や疎開する者も増え業界全体で機能不全となっていった。
川瀬巴水も空襲が激しくなってきた1944年(昭和19)に栃木県塩原へ疎開した。再び巴水が東京に戻ったのは終戦後の1948年である。
1953: 無形文化財技術保存記録木版画《増上寺之雪》
戦後のバブル
終戦後間もなくは実は版画業界は潤っていた。占領下にあった日本に滞在した連合国軍の外国人に日本の版画は熱狂的に求められたのであった。(お土産需要やね)
彼らは、版画を取り扱う日本美術店や土産物店を訪ねたり、作家のもとに直接訪れたりした。渡辺版画店も関東大震災の時とは違い、作品を疎開させていた事や銀座店舗の蔵が無事であったことから引き続き銀座で営業を継続できた。(良かったね)
新版画が抱える3つの大問題
しかしバブルはいつかはじける物…占領期の一時的な需要は、やがて多くの外国人の帰国によって終息を迎えていった。
その後の新版画は、大きな問題と直面することとなった。バブルで潤っていた間は見えにくくなっていたが、実は新版画には根本的な問題が存在していた。新版画を取り巻く状況が戦前、戦後で大きく変わっていた事に対する反応を遅らせてしまったのだ。
その大きな問題が資材の調達困難、後継者不足、そして顧客マーケットの不足である。
新版画は材料にこだわりを持ち、特殊な版木や紙、絵具を用いていた。既に戦時中でもこれらの物資は不足しており品質を落として何とかやりくりをしていた。(色んな所から質が悪くなったとクレームがあったりもしたみたい)
戦後になり、資材不足が解消するかと思いきや、復興、工業化社会の中で、そちらに資材が優先されむしろさらに困窮する形となった。(しゃーないよな。日本では芸術とかっていつでもぜいたく品として扱われて優先順位が下げられてしまうからね)
後継者不足も深刻な問題であった。特に新版画は絵師、彫師、摺師の三人が製作に関わり、版画の事を熟知した熟練の彫師、摺師の不足は致命的であった。職人の老年化だけではなく戦争で亡くなった者、疎開から戻らない者などの存在もこの問題により拍車をかけた。
そして顧客マーケット不足の問題だが、新版画は元々海外マーケットに比重を置いていた。現地で日本の美術品を扱う業者に販売して海外マーケットの需要を伸ばしていたが戦争がはじまるとそれらの業者も閉店せざるを得ず、戦後も復活する事は無かった。この海外のバイヤー消失がマーケット不足を招いた。
渡辺規の奮闘
この問題に取り組むべく、渡辺庄三郎の息子・渡辺規は文部省に技術者育成計画を働きかけたが予算の関係で折り合わず、妥協点として木版の彫り摺りの技術保存記録の作成が決定された。
その記録の為に製作された作品の一つが川瀬巴水の「増上寺の雪」である。(まさかの妥協の産物だったのか!!)
増上寺の記録事業に続いて、新版画の画家、彫師、摺師を人間国宝(無形文化財)に指定する事について議論されたが結論は見送られた。色々な理由があったが、大きくは一つの作品に対して画家、彫師、摺師の三人の職人の手が必要であり、さらには版元の役割も大きい事から他の人間国宝と異なり過ぎる為、指定する事が出来なかった。
1957: 逝去
このような状況下の中でも巴水は最後まで作品を描き続けた。
絶筆は岩手県にある中尊寺金色堂を描いた「平泉金色堂」。
この作品を手掛けている時には既に巴水は胃がんを患っており、よく言われるのは中景に描かれている雲水の後ろ姿はこの世に別れを告げる巴水の姿ではないかという説であるが真相は本人のみぞ知る所である。
この作品は巴水の死後に完成し、百ヶ日の法要の際に友人知人に配られた。享年74歳。
最後に
いかがでしたでしょうか?
今回は「近代風景版画家の第一人者」と呼ばれた川瀬巴水の生涯をご紹介させていただきました。
新版画は巴水の死から5年後の1962年、渡辺庄三郎の死をもって一つの時代を終えました。
もちろん今でも数多くの人たちによってその技術や伝統は守られていますがひとつの大きな時代が終えたと言えます。
しかし近年、川瀬巴水の作品をはじめとする新版画の評価が高まっている。特に海外での人気は高く、川瀬巴水の存在は日本よりもむしろ海外の方が広く知られている。
海外人気から日本でも遅れて人気が出る事は美術の世界では過去の歴史の中でも非常に多い。
日本でもより多くの方にその存在が認知され、作品によって心を癒される方が増える事を心より願っております。