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円山派と四条派の違い
日本美術の作家とか調べてたらちょこちょこ出てくるこの言葉。
『この作家は四条派の作家だ~』
とかいう奴ですね。
江戸後期くらいの作家から出てくるワードなんですが
『円山派はなんとなく円山応挙の一派なのかなって思うけど四条派って何?』
『円山派と四条派って分けて使われる場合もあれば一緒に円山・四条派って繋げて使われる場合もあるけど何故?』
『円山派と四条派の違いって何?』
などのご質問を頂戴します。
別にわからなくてもそこまで作家の理解に困る事はないので流してしまいがちなんですがなんかモヤっとしませんか?
『えーねんけど何かスッキリせんな〜。なんかそんな自分に嘘をついてやり過ごしてるな〜』みたいな。
そんな方の為に今回そこら辺をザックリ整理して解説したいと思います。
今回の解説で円山派、四条派の概念や違いがわかり、美術のレベルがワンランクアップしてスッキリします。
始祖
まずスタートですね。誰が始めたのかって所ですけど円山派は円山応挙(1733-1795)という作家さんです。こちらの作家は以前、解説しているので以下の記事をご参照ください。
では四条派ですが、これは四条さんではないんですね。流れ的に四条さんっぽいんですけど正解は松村呉春(1752-1811)という作家になります。
この松村呉春を始め、弟子達が京都の四条という場所近くに住んでいたので「四条派」と呼ばれるようになったそうです。(結構イージーなネーミングだったんですね。)
特徴
それぞれの派の特徴なんですが、概念的な部分なのでものすごくわかりやすくする為によく言われる芸術における対立軸で解説したいなと思います。
芸術におけるよく言われる対立軸とは「技術か精神か」という議論ですね。
優れている芸術とは超絶技巧で作られた物だという技術至上主義と芸術を作る際の高い精神性が大切だという精神至上主義というイデオロギーの違いがあるんですね。
例えば音楽のロックの世界でも、特にギターでよくこの論争は起こります。
速弾きに代表される高い演奏テクニックを良しとするハードロック、ヘビィメタルなどの派閥とシンプルなギターコードでもメッセージ性を重視したパンク派閥とは比較的相いれないイデオロギーなんです。
こういった感じでの「技術か精神か」の対立は絵画の世界でもあったんですね。
絵画の世界で言うとリアルに描く「写生画」と精神性を尊ぶ「文人画」という派閥に分かれます。
円山応挙が誕生する前まではどちらかというとこの「文人画」、つまりリアルを追い求めるような画風よりも精神性を尊ぶような画風という物が主流でした。(文人画とかね。もちろん文人画以外の絵画に関してもそういった趣きが主流でした。)
その後、円山応挙がリアルに描く事に重きを置いた「写生画」という物を生み出し画壇に多くの影響を与えました。
なので円山派とは「写生」というイメージで良いです。
そして四条派はその「写生」に文人画の精神性の要素を加えた画風が特徴になります。
ここで「ん?どういう事?」と思われた方、大丈夫です。次で解説します。
混ざる原因
この円山派と四条派が分けて言われたり一緒に言われたりする原因を見ていきたいと思います。
それはそもそもこの四条派の祖である松村呉春は文人画の出身なんです。
最初就いた師匠が文人画の大家と言われる与謝蕪村という絵師なんですね。
与謝蕪村が亡くなった後、呉春は交流があった円山応挙に弟子入りします。(正確には応挙は弟子として扱わず友として受け入れたそうです。呉春凄かったから。)
ここで写生画を習得しながらも、文人画の要素を少し混ぜたハイブリッドな画風を呉春は生み出していきます。
これが四条派の画風になるんですね。なので応挙の写生画の発展形みたいなイメージです。
なので円山派と四条派は元々根っこは同じなのでつなげて言われたりするんですね。
さらに混ざる原因を言うと、明治時代になるとこの円山派と四条派を両方学ぶハイブリッド作家が生まれたりして、しかもその人が塾を開いて多くの門人を育てまくるみたいな流れになってもはや何が円山派で四条派なのかを分かつ境界線がわかりにくくなって
「もう円山派も四条派もよくわからんから京都派でい~んじゃねぇ?」
みたいな空気が主流となったというのも原因に挙げられます。(最後まで「わしは円山派だ」と言い続けて四条派と混同されるのを嫌がっていた川端玉章という作家もいましたけど…)
円山派は応挙亡き後は、子孫が跡を継いでいって存続していたのですが応挙を越えるようなカリスマは生まれず徐々に衰退していたのに対して四条派は有能な弟子に恵まれ栄えていきます。時代が進むにつれて四条派がメインとなり、呼び方も「四条派の作家」か「円山・四条派の作家」という風になっていったという事なんですね。
以上が円山派と四条派の違いの解説になります。元々根元は一緒だったけど円山応挙の弟子・松村呉春によって写生画の画風に文人画の要素を加えた発展形が四条派となり、円山派と四条派の両方学ぶ人たちも生まれ、両者の垣根がどんどん無くなり一緒の物のように考えれるようになったという事なんですね。
これで円山派と四条派のモヤっとはある程度解消されたのではないでしょうか?
今後もこういった美術解説をちょこちょこ行っていきますのでHPのコラムチェックよろしくお願いいたします。